足利義栄とは 知られざる室町幕府14代将軍

足利義栄

足利義栄(あしかが-よしひで)は、室町幕府の将軍を8ヶ月間務めた戦国時代の武将です。
父は足利義冬(足利義維)で、母・大内義興の娘との間に、1538年に平島館にて生まれました。
父・足利義維(あしかが-よしつな)は、室町幕府第11代将軍・足利義澄の次男です。
10代将軍・足利義種が細川高国と対立し、阿波の撫養城(鳴門市)に移ると、足利義冬を養子に迎え、1523年に客死しました。
そのため、足利義冬(足利義維)は、阿波守護・細川之持の世話を受けることになります。
阿波・阿波公方館(平島館)にて3000貫の領地を細川家より得ていましたが、1555年4月からは大内義長を頼っていたようです。
しかし、1563年頃、三好長逸らによって、将軍家の血筋である足利義冬(足利義維)と子の足利義栄は、阿波に戻ったようです。


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そして、1565年、京に戻っていた13代将軍・足利義輝が、松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康岩成友通)から襲撃を受けて、暗殺されます。(永禄の変)
こうして、次期将軍争いとなり、足利義維・足利義栄(足利義親)の親子が将軍候補となりました。
この時、父・足利義冬(足利義維)は中風(ちゅうぶ)を患っていたため、代わりに足利義栄(足利義親)が要請を受けます。
しかし、朝廷への献金が不足して、当初は征夷大将軍になかかな就けませんでしたが、摂津・富田の普門寺にて山科言継の使いを受けて、1568年2月に室町幕府第14代将軍に就任し、父が後見しました。
足利義栄の正室は、結城氏の娘とあります。
ただし、京都は三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)、松永久秀が支配していて入れず、普門寺城から、一度も京には上洛できなかった将軍と言う事になります。

一方で、足利義輝の弟・足利義昭は、正統な血筋による将軍家を再興するため、越前・一乗谷城を訪れた足利義昭は、明智光秀の仲介を受けて尾張の織田信長を頼ります。
そして、1568年9月、足利義昭を擁立した織田信長は、上洛の軍勢を発し、三好三人衆の勢力を京都から駆逐しました。
そのおり、普門寺城から阿波に逃れるも、背中に腫物を患っていた14代将軍・足利義栄は9月30日に死去しました。
享年は29ともされます。
その後、松永久秀が織田信長に臣従し、足利義昭が第15代将軍に就任しています。


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父・足利義冬(足利義維)も、1573年に死去しました。享年65。
阿波・平島館は、弟・足利義助が継ぎました。

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