摂津晴門の解説 室町幕府の政所執事として将軍権力回復に尽力

摂津晴門

摂津晴門(せっつ-はるかど)は、戦国時代の足利将軍家の家臣で、政所執事を務めました。
そもそも、室町幕府の政所(まんどころ)執事は、代々伊勢家が世襲していました。
代を重ねるごとにその権力は大きくなり、足利義満ですら伊勢家の政所支配に介入することが難しくなったと言われています。
しかし、この政所支配が崩れて足利義輝足利義昭の二人の将軍の元、摂津晴門が政所執事となり、室町幕府の政治を担いました。

なぜ摂津晴門が政所執事になったのか?それが何を意味するのか?
摂津晴門の生涯を通して、みていきたいと思います。


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出自(足利義晴・足利義輝との繋がり)

摂津晴門の生没年は、はっきりわかっていませんが、永正年間(1504~1521)の生まれではないかと言われています。
官途奉行、政所執事として幕府に仕えました。
父は摂津元親(摂津元造)で、兄弟に海老名頼雄、子に足利義輝とともに討死した糸千代丸がいます。

もともと摂津家は、京都の明法家(法律の専門家)である中原氏から分かれています。
平安時代は、詔勅の訂正・上奏文の起草、儀式の執行などを司る外記として代々朝廷に仕えたと言われています。
鎌倉幕府からも法の見識を買われて仕えることになります。
13世紀末頃、中原親致が摂津守に補任され、これを機会に摂津を称したのが摂津家の始まりのようです。

鎌倉幕府の崩壊後、南北朝時代を経て室町幕府に仕えた摂津家。
摂津家が世襲している「官途奉行」は、官位獲得を目指す戦国大名から多大な礼金を得ることができました。
幕府権力は徐々に衰退していきますが、摂津家はこの礼金を元に財政面から幕府を支える役目を果たしました。
一方で摂津晴門の父である摂津元親(元造)は、13代将軍となる足利義輝の元服の儀式において、奉行を務めています。
このように摂津家は、幕府の中で一定の地位を維持していました。

摂津元親(摂津元造)の嫡男は、12代将軍・足利義晴より一字をもらい受け、晴直(はるなお)のちに晴門と名乗るようになります。
そして1528年、従五位下中務大輔に任じられています。


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摂津元親(摂津元造)の養女である春日局(日野晴光室)は足利義輝の乳母を務めました。
つまり、摂津晴門は足利義輝にとっては義理の伯父にあたります。

このように摂津晴門が世に出る前に、足利将軍家(義晴、義輝)と摂津家の間には強い結びつきができつつありました。

その後、父・元親(元造)は、足利義晴の死去を受けて出家します。
ただし、官途奉行・地方頭人・神宮方頭人を務めているままだったので、摂津晴門がこれを補佐するようになります。
1562年頃に父が死去した後は、これらの地位を正式に引継ぎ室町幕府に仕えることになります。

摂津晴門 政所執事に任命(伊勢家の没落と将軍権力の回復)

摂津家が将軍家と信頼関係を着実に築いていく一方で、政所執事を世襲する伊勢家(当時は伊勢貞孝)は、将軍家と溝を深めていくことになります。

1550年、12代将軍・足利義晴は臨終の際に枕元に伊勢貞孝を呼び後継者である足利義輝の補佐を遺言したと言われるほど良好な
関係でありました。

その後、京都政界では三好長慶と13代将軍・足利義輝の軋轢が顕在化。
1553年、両者による抗争に発展します。この時、足利義輝は三好長慶に敗れ近江・朽木谷へ退避します。
政所執事である伊勢貞孝は、京都に留まり事実上三好家と行動をともにするようになります。
この裏切り行為に対し、近江にいる足利義輝は、伊勢貞孝の領地没収を命じますが、実行されず足利義輝・伊勢貞孝の決裂が決定的となります。

1558年、一転して三好長慶と足利義輝は和睦。義輝は京都に入ります。
1561年、三好長慶の勢力拡大に危機感を募っていた近江の六角義賢が
京都に侵攻します。(将軍地蔵山の戦い)。この時、足利義輝は三好長慶と戦線を共にします。
一方、伊勢貞孝はと言うと、六角六角義賢が占領した京都に留まって政所の政務を行っていました。
このような状況の中、同年6月に足利義輝・三好長慶が京都に復帰すると、伊勢貞孝は更迭、失脚に追い込まれました。
もともと将軍家が、幕府内での伊勢家の影響力増大を警戒していたところに
・節操のなさに、足利義輝・三好長慶の双方から信用されなくなった(権力の後ろ盾をなくした)。
・部下から職権乱用で告発された(勝手に徳政免除を行った)。
というような更迭する理由が揃ったため、足利義輝が行動にでたと考えられています。


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この処分に納得ができない伊勢貞孝は京都船岡山で挙兵します。
しかし、三好長慶の家臣・松永久秀に子の伊勢貞良と共に近江・杉坂で討死。伊勢家は大きく没落する事になります。

そして1564年、伊勢貞孝に代わって摂津晴門が政所執事に任命されます。
足利義輝の狙いは、今まで支配の及ばなかった政所の掌握を津晴門を通じて実現し、将軍権力の回復を図ることでした。
また、官途奉行や地方頭人を経験し広い人脈を持っていたことや、私的にも足利義輝に近い存在であたことも晴門任命の理由とされています。

いずれにしろ、伊勢貞孝の失脚により、代々続いた伊勢家による政所支配の歴史に終止符が打たれました。
しかし、足利義輝による「将軍権力の掌握」という方針が、三好長慶死亡後の三好家・松永家の反感を買ってしまうことになります。

永禄の変

足利義輝の政所掌握、摂津晴門の政所執事任命。
この将軍権力の強化策に対して、三好三人衆・松永久秀は「傀儡政権の将軍を擁立する」という真逆のことを考えていました。

1565年、足利義輝の支援者である近江の六角義賢が動けないことを確認すると、三好・松永両勢力は義輝のいる二条御所に侵入。
義輝を自害させ、摂津晴門の嫡子・13歳の糸千代丸も討死しています。


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足利義輝が死亡した後も、摂津家が世襲していた官途奉行などの地位は安堵されていたとみられています。
しかし、次期将軍候補の足利義栄が伊勢貞為(貞孝の孫)の出仕を認めた事に抵抗(義輝に仕えた幕臣を取り込み、
権力を安定させようとした)。
1568年2月、摂津晴門は足利義栄への将軍宣下には出席せず、越前にいた足利義輝の弟である足利義昭の元で仕えるようになります。

政界への復帰

1568年10月、織田信長浅井長政の上洛軍に警護されて上洛した足利義昭が15代将軍に就任します。
足利義昭は、越前まできて仕えた摂津晴門を信頼し、兄・足利義輝と同じように、政所執事として起用します。

しかし、足利義昭との仲がうまくいかなかったのかどうかはわかりませんが、1571年に伊勢貞興が政所執事に就任。再び伊勢家は政所執事となります。

※伊勢貞興は若年であり、直接政務をみることはできませんでした。そのため実際は、織田家の京都進駐後に政務をみた武将(柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成坂井政尚佐久間信盛等)が政務を行った可能性があります。摂津晴門のように足利将軍家に忠誠が強い人間が政務の中枢にいることが邪魔であったのかもしれません。京都市中における実権を掌握するための織田家の方針であったのではないでしょうか。


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永禄の変で殺害された糸千代丸以外に摂津晴門の子は確認されていないので、摂津家の嫡流は断絶したと言われています。
弟・海老名頼雄の子とみられる摂津刑部大輔が、大友氏の家臣になったことが知られています。

(寄稿)渡辺綱

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