新田義興の解説~父・新田義貞の忠義を受け継いだ忠臣

新田義興

新田義興とは

後醍醐天皇の討幕から足利尊氏の反乱といった最後の最後まで後醍醐天皇に忠義を尽くした新田義貞
その義貞には自身の子にも関わらず、生まれによって蔑ろにしていた子がいました。
その人物は新田義興(にった-よしおき)です。
今回は、父の新田義貞の知名度によって影が薄い存在となっている義興の生涯をご紹介します。


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父に疎まれた義興

義興は元弘元年(1331年)に生まれます。
新田義興が生まれた時は後醍醐天皇率いる討幕軍と鎌倉幕府軍が戦った元弘の乱が起こっている時でした。
元弘3年(1333年)に鎌倉幕府を滅亡させると、建武2年(1335年)には足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻しました。

義興は建武4年(1337年)に北畠顕家の奥州からの西進に伴い、上野国(現在の群馬県)から挙兵。
そのまま顕家の軍に加わります。
新田義興は身分の低い側室から生まれたため、父である新田義貞からは疎まれていました。
また、義貞ではなく顕家の軍に加わったことが顕家に対して対抗意識を持っていた貞義の心証を悪くしてしまいました。


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後醍醐天皇のいる吉野に着いた義興は、後醍醐天皇に拝謁した後に元服します。
しかし、義貞が同年に戦死したことで越後国(現在の新潟県)へ逃れました。

鎌倉奪還のため、奮闘

文和元年(1352年)、義興は観応の擾乱での混乱を利用し、鎌倉奪還を目指し上野国で挙兵。
武蔵野合戦が勃発しました。
その軍の中には従兄弟の脇屋義治や北条高時の遺児・北条時行もいました。

義興は義治と時行と足利尊氏の4男・足利基氏を破り、鎌倉を占拠します。
しかし、別方面で戦っていた異母弟の新田義宗が敗走したことで、鎌倉を後にし越後国へ逃げました。
この時、時行だけ捕まってしまい、その後処刑されています。

正平13年(1358年)に足利尊氏が病死すると、これを好機と見た新田義興は再び挙兵。
鎌倉を目指しました。
新田義興と対峙する基氏は、義興の進軍を阻むため、竹沢右京亮(うきょうのすけ)と江戸高良に指示を出します。

その奮闘は後世に伝わる

竹沢右京亮は美女を使って義興の気を引いた後に謀殺する企てでしたが、失敗。
江戸高良は竹沢右京亮と船の漕ぎ手を懐柔し、義興を船に乗らせる状況を作ります。
そして、漕ぎ手が櫂を川に落として取りに行く際、船底に穴を空かせました。

新田義興は沈みゆく船の上で身動きが取れないまま、多摩川の矢口で従者12人と謀殺されました。
江戸時代にはこれを基にした人形浄瑠璃・神霊矢口渡があります。


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義興を討ち取った2人は恩賞を貰うため、足利基氏のもとへ向かいます。
功績により、土地を貰いますが、義興の怨霊が起こした落雷によって落馬し、高良は発狂しながら死亡しました。

寄稿(拾丸)

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