板額御前とは~鎌倉武士として戦った越後の女性武将で弓の名手


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板額御前(はんがく-ごぜん)は城資国(城助国)の娘ですが、生没年などは不詳です。
平安時代の末期から鎌倉時代の初めの頃の女性で、日本における数少ない「女武将」として知られます。
巴御前に並ぶ女傑として「巴板額」(ともえ-はんがく)とも呼ばれます。坂額とも書きます。

出自である城氏(じょうし)は、常陸平氏大掾氏の庶流で、越後が拠点だったようです。

巴板額の長兄・城資永(じょう-すけなが)は、平清盛のもと検非違使などを務め、北国での有力豪族の筆頭でした。
平清盛が死去したあと、1181年に平宗盛から信濃で挙兵した木曾義仲を追討するよう命じられます。

平家の期待通り越後・会津四郡・出羽南部などから約1万の軍勢を集めましたが、出陣直前に卒中を起こし、翌日の1181年2月25日に急死しました。

急遽、弟の城長茂(じょう-ながもち)が家督を継いで6月に信濃に出陣し横田城に入ります。
こうして、長野市にて横田河原の戦い(よこたがわらのたたかい)となりました。
しかし、軍略に欠け、短慮でもあった城長茂(城助職)は、1万の大軍でありながら、佐久・依田城から妻女山の西側になる千曲川にて、3000の木曾義仲(源義仲)に大敗を喫します。

城勢は、9000騎余が討死・逃亡したとあり、城長茂(城助職)も負傷したため、僅か300騎で越後に敗走します。
その間にも離反者が相次ぎ、そのまま会津へと逃れ、城氏は衰退・没落しました。
一方、木曽義仲は越後も抑えたことで、のち北国を制覇します。

そののち、1188年頃に城長茂(城助職)は源頼朝に降伏し、梶原景時が身柄を預っています。
しかし、1189年にの奥州合戦では梶原景時の仲介で、鎌倉幕府軍に加わることが許されています。

吾妻鏡によると、1201年に、城資永の子・城資盛(じょう-すけもり)が越後にて挙兵しました。
この時の反乱軍に加わっていたのが、叔母の坂額御前と言う事になります。

この挙兵は建仁の乱(けんにんのらん)、または城長茂の乱とも呼ばれます。
これには、城氏を理解していた梶原景時が、1200年1月に鎌倉幕府から追放されて滅ぼされたのがキッカケと言えます。

梶原景時追放の首謀者のひとりである小山朝政が、大番役で京都守護のため在京していたのですが、1201年1月23日の夜に、城長茂(城助職)がその小山朝政の邸宅を襲撃します。
しかし、小山朝政は不在だったようで難を逃れ、失敗した城長茂(城助職)は、関東討伐の勅命を受けようと、土御門天皇がいる仙洞御所の二条東洞院殿に向かいました。
そして、鎌倉幕府追討の宣旨が拒否されると、吉野山に潜伏しますが、1201年2月22日、小山朝政ら鎌倉幕府軍の追討を受け、城長茂は討たれました。(享年50)

しかし、越後においても、これに呼応するように、城資永の子・城資盛と坂額御前ら城一族が、約1000にて越後・鳥坂城で挙兵していたのです。
雪解けを待って、4月2日に近隣の鎌倉幕府・御家人が鳥坂城を襲いますが敗北します。
これを受けて、北条時政大江広元、三善康信入道と言った有力御家人と、越後国守護・佐々木盛綱が阿賀野川を渡ります。

佐々木盛綱が鳥坂城に軍使を出すと、城資盛は鳥坂城の付近で戦闘を行うと返答。
5月上旬から戦闘が始まり、籠城した城勢は少数ながらも善戦し、佐々木盛季と海野幸氏は負傷します。

この時、坂額御前(飯角)は髪を結い上げ、腹巻きを身につけて矢倉の上から弓で応戦したと言います。
その命中率は百発百中で、次々に敵を倒したとあり、吾妻鏡では「女性の身たりと雖も、百発百中の芸殆ど父兄に越ゆるなり。」と明記されています。

しかし、信濃の武士・藤沢清親が巴坂額の両股(両足)を射ったため、倒れたところ板額御前は捕縛されました。
これにより、鳥坂城の城勢は総崩れとなり、城資盛は脱出して行方不明となりました。
出羽に潜伏したと伝わりますが、その後の動向は不明です。
本城の白鳥城は5月8日~9日に陥落しています。

顔立ちが良い巴板額(板額御前)は鎌倉に護送されて、6月28日、2代将軍・源頼家の目の前に差し出されましたが、傷が癒えいないながらも全く臆した様子がなく、周囲の御家人を感心させたと言います。

その態度に深く感銘した甲斐源氏の一族・浅利義遠(浅利義成)が、将軍・源頼家の許可を得て、板額御前を妻(または妾)として貰い受けました。

こうして、板額御前は、浅利義遠の妻として甲斐に移り住み、山梨県中央市浅利で死去したとされます。
浅利から近い、笛吹市境川町小黒坂には板額御前の墓所と伝わる板額塚があります。

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と言う事で、板額塚にお参りして参りました。
下記が板額塚の入口です。

板額塚がある場所ですが、下記の地図ポイント地点の交差点から、小高い丘に入る農道にクルマを止められるスペースがあります。

上記の写真はその交差点から、右と左に分けている農道の右側の写真ですが、どちらの農道からも歩いて行けます。
下記の写真は、右側を歩いて1分程のところで、階段を登って進みます。

ちょっと階段を登ると平坦地に出て、その林の中に板額塚がありました。
きちんと整備されているようで、丁重にお参りさせて頂きました。

う~ん、鎌倉時代のものとは思えず、なんとも言えないような・・。
でも、そうだとおっしゃるので、信じたいところです。
必要な所要時間は5分ほどでした。

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