小牧・長久手の戦いと池田恒興


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 小牧・長久手の戦いを、討死した池田恒興の視点から紹介したい。

 1584年、羽柴秀吉は、織田信雄に味方する徳川家康が浜松にいる留守を狙って三河への侵攻を決意。
 羽柴秀吉の甥・三好秀次に20000の兵を与え、堀秀政、池田恒興、森長可の3人を補佐役として同行させた。池田恒興は12000で出陣。
 これを速やかに察知した徳川家康は、3月7日に浜松城を8000で出陣し、3月13日に織田信雄3000が籠る清洲城に入った。
 当初、織田信雄に味方するのではと予想されていた池田恒興が、羽柴秀吉側につき、織田信雄の犬山城を同じ3月13日に占領
 これに対し徳川家康は3月15日に小牧山城へ向かった。
 しかし、羽柴秀吉に味方した森長可(池田恒興の女婿)3000も、徳川家康と同じく小牧山城を狙っていたため、16日に小牧山城を望む羽黒に着陣した。
 この動きに対して徳川家康は、同日夜半、酒井忠次榊原康政ら5000を羽黒へ派遣。
 翌3月17日早朝、酒井忠次は森長可を攻めて潰走させた。(羽黒の戦い・八幡林の戦い)

 3月18日、徳川家康は小牧山城に入り、土塁を築くなど改修。蟹清水、北外山、宇田津、田楽に砦を新たに築いて羽柴秀吉勢に備えた。
 大坂城築城で多忙だった羽柴秀吉は、3月21日に大坂城を出発し、3月27日に犬山城に入城。3月28日には、楽田に本陣を構えた。
 また、小松寺山砦、小口城、内久保砦、岩崎山砦、二重堀砦、青塚砦、外久保砦への攻撃態勢も整えるも、動いた方が負けと、羽柴秀吉勢も徳川家康勢も膠着状態となった。

 4月4日、膠着状態を打破する為、池田恒興は羽柴秀吉に下記のように進言した。
 「家康が小牧山に居座っているため、本拠である岡崎は手薄になっているはず。密かに岡崎を攻めれば、家康は岡崎へ動くだろう。その隙に攻撃すれば、勝利は間違いない」
 これは織田信長が得意だった「中入作戦」であったが、織田信長以外での成功例が少ないため、羽柴秀吉は最初は断ったと言う。

 しかし、羽黒の戦いの汚名返上で功を焦った池田恒興は、翌日も再度中入を申し入れた。
 羽柴秀吉は池田恒興の機嫌を損ねると、芯から羽柴秀吉に味方する武将が少ない中、諸将が織田信雄側に寝返る恐れもあった為、池田恒興の中入を承諾したとされる。
 ただし、これは太閤記による記述で、実際には羽柴秀吉の立案で、作戦が失敗した為、後世に池田恒興の提案であったとしたようだ。

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 4月6日夜半に岡崎へ向けて出撃開始。
 第一隊(先鋒)6000 池田恒興・池田之助
 第二隊(次鋒)3000 森長可
 第三隊(目付)3000 堀秀政
 第四隊(本隊)8000 三次秀次(羽柴秀次)

 徳川家康は4月7日に三次秀次勢が篠木付近に進軍し宿営したとの情報を得て、翌4月8日夜、小牧山に6500の守備兵を残して、13500を自ら率いて出撃することにした。
 この中から丹羽氏次・水野忠重と榊原康政・大須賀康高ら4500を先発隊と選抜して、夜19時に小牧山を出発させ、徳川家康・織田信雄は20時に出発。本隊の先鋒は、甲斐・武田の旧臣を中心とした井伊直政の赤備えだった。先発隊は23時頃に小幡城へ入城。

 徳川家康勢の先発隊4500は
 道案内 300 岩崎城主・丹羽氏次
 左翼  1550 榊原康政
 右翼  1850 大須賀康高
 予備  800 水野忠重隊

 徳川家康本隊は
 前衛 3000 井伊直政
 本隊 3300 徳川家康
 予備 3000 織田信雄

 4月9日未明には池田恒興勢が、徳川勢の丹羽氏重(丹羽氏次の弟)が守備する岩崎城(日進市)の攻城戦を開始。
 丹羽氏重らは善戦したが、約3時間で落城し玉砕。丹羽氏重(16歳)、加藤忠景らが戦死した。(岩崎城の戦い)。
 通説では先鋒の池田恒興勢が岩崎城から出撃した丹羽氏重勢の挑発の銃撃を受け、それが池田恒興が乗っていた馬に命中。
 落馬して激怒した池田恒興は、この作戦は隠密行動による「奇襲」ということを完全に忘れ、岩崎城を大々的に攻めたとされている。
 
 この間、できる限り隠密行動を取って進軍していた三次秀次、森長可、堀秀政は、現在の尾張旭市、長久手市、日進市にまたがる地域で休息した。
 しかし、その背後には、すでに徳川家康勢が迫っていたのである。

 三次秀次勢は休息中に後方から水野忠重・丹羽氏次・大須賀康高勢、側面から榊原康政勢の一斉攻撃に見舞われた。
 逆に徳川勢が奇襲攻撃を仕掛けた格好となり、三次秀次勢は総崩れで長久手方面へ敗走。
 三次秀次も自身の馬を失い、供回りの馬で辛くも逃げ遂せたと言う。
 また、目付として付けられていた木下祐久(羽柴秀吉正室・おねの父)や、弟・木下利匡を初めとする、多くの木下氏一族が、三次秀次の退路を確保するために討ち死にした。(白山林の戦い)

 三次秀次勢より前にいた堀秀政勢に、三次秀次勢の敗報が届いたのは約2時間も後のことだったが、堀秀政は直ちに引き返し、三次秀次勢の敗残兵を取り込んで、桧ケ根に着陣。
 迫り来る徳川勢を待ち伏せし、檜ヶ根(桧ケ根、長久手市)辺りで堀秀政勢と徳川勢は衝突した。
 三次秀次勢を撃破して、士気も上がり勢いに乗っていた徳川勢であったが、戦上手で知られる堀秀政の前に敗退した。(桧ケ根(檜ヶ根)の戦い)

 徳川家康は迂回して、池田恒興と森長可勢を分断。堀秀政は桧ヶ根の戦いで勝利したものの、徳川家康本隊が現れ、深追いは不利と判断し北方へ退却を開始。

 岩崎城を占拠した池田恒興・池田之助と森長可は約300の首実検をし、朝食をとりながら祝宴を開いていたところへ、三好秀次敗戦の知らせが朝7時頃届いた。
 池田恒興・森長可隊は、右翼に池田元助と池田輝政4000、左翼に森長可3000、後方に池田恒興2000を配置。
 既に布陣を終えていた徳川家康勢は、右翼に徳川家康3300、左翼に井伊直政3000、更に織田信雄3000と、お互いに戦力的には互角になった。
 しかし、先に着陣した徳川勢は、山に陣取り斜面に鉄砲隊を3段構えで配するなど万全の構えであり、池田恒興らは湿地の長久手での布陣を余儀なくされるなど、不利な布陣であった。
 対峙は約2時間続いたが、朝10時頃、両軍入り乱れての死闘が始まった。
 約2時間後、森長可が井伊直政勢の銃弾を浴びて戦死するのが知れ渡ると、徳川家康勢が有利となり、ついに池田恒興も永井直勝の槍を受けて討死。
 嫡男の池田元助も安藤直次によって討ち取られた。
 池田輝政は戦場をなんとか離脱するも、羽柴秀吉軍は潰滅状態となり、この小牧・長久手の戦いでは徳川家康が勝利した。

堀秀政~かなり有能な武将なれど注目されていないのはもったいない?
大垣城の歴史と大垣城の戦い~大垣城訪問記
池田輝政と池田元助~現在の姫路城を築城した池田輝政の功績

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