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府中の高安寺(こうあんじ)は、様々な時代に翻弄された歴史が刻まれている地でもあります。
そもそも、高安寺がある場所は、多摩川の河川敷より北側にある武蔵野台地の端(高台)となります。
その場所は、多摩川を望む南西向きの台地の先端であり、南と西には小川が流れ、とくに西側は小さな谷戸が形成されており、すぐ北側は、旧甲州街道が東西に通っています。

関東では939年に平将門が兵を挙げると、940年2月に下総国猿島郡の平将門本拠地を襲撃して鎮圧した武将として、平貞盛・藤原秀郷・藤原為憲らがいます。

その功績で藤原秀郷(ふじわらのひでさと)は武蔵野守となったのですが、その時に構えた屋敷が、ここ高安寺の場所だとされ、高安寺の境内には「秀郷稲荷」があります。

そもそも東京の府中周辺は、甲州街道と府中街道が交差する場所であり、古来より武蔵での中心地であり、860年頃には武蔵国分寺も北方に築かれていました。
※各写真はクリックすると拡大します

なお、平安貴族であり関東にて君臨した藤原秀郷(俵藤太)ですので、その子孫は関東周辺に留まらず、多岐に渡ります。
源氏、平氏と並ぶ藤原一族として、常陸では小野崎氏、小貫氏、川野辺氏、佐藤氏、水谷氏、上野東部では赤堀氏、桐生氏、沼田氏、下野南部では佐野氏、足利氏(藤原氏)、小山氏、田沼氏、信濃では大石氏、下総は下河辺氏、結城氏、摂津での荒木氏、武蔵の比企氏、紀伊の佐藤氏、尾藤氏、伊賀氏、近江の近藤氏、蒲生氏、今井氏、伊勢の伊藤氏、相模の山内首藤氏、波多野氏(秦野氏)、そして奥州平泉の奥州藤原氏(亘理氏)、他では内藤氏、佐藤氏、大友氏、少弐氏、立花氏、武藤氏、筑紫氏、田村氏、大屋氏、長沼氏など、のちの坂東武者となる多くの武士を排出しています。
それを考えますと、関東や東北に現在お住まいの佐藤さんは、この藤原秀郷と関連がある可能性が高いですね。

その後、藤原秀郷が任期を終えて帰京すると、屋敷跡はいつしか「見性寺」となっていましたが、この見性寺については良く分かっていません。
しかし、この場所は、その後の歴史に度々登場することとなります。

まず、源義経です。
平家を滅ぼした源義経は、鎌倉入りを許されず、京または奥州へ逃れる際でしょうか?、見性寺へ逗留した際に、武蔵坊弁慶が赦免祈願のため大般若経を書き写したと言われています。
下記がその弁慶の名がついた弁慶硯の井戸の写真です。

その後、南北朝時代である1333年5月15日には、鎌倉を目指していた新田義貞がここ見性寺に「本陣」を置いて、分倍河原の戦いとなりました。
分倍河原の戦いは多摩川の河川敷での戦闘となっています。
当然、昔の多摩川は、今のように堤防は有りませんので、河川敷は見性寺(高安寺)の標高56m高台すぐ手前まで迫っていた訳です。
見性寺(高安寺)の南側崖下は、標高49mですので、比高は7mといったところです。
分倍河原駅の駅前ロータリーには新田義貞の像がありますが、この時の戦乱からか、見性寺は衰退しました。

しかし、後醍醐天皇が吉野で崩御したあとで、征夷大将軍となった足利尊氏が1340年頃に、荒廃した見性寺を再建します。

建長寺の大徹禅師を招いて、臨済宗の禅寺として再興し、安国寺の一つとして龍門山高安護国禅寺(高安寺)と命名しました。
高安寺は室町幕府から手厚い保護を受けて、塔頭10・末寺75もある大寺院となり、寺領も東は代田村、西は貝坂、南は向山、北は山口までと広範囲に及んだと言います。

そして、1349年に鎌倉公方関東管領を補佐役として関東を支配すると、以後は、鎌倉公方の影響下に置かれます。
1381年には小山義政の討伐のため、第2代鎌倉公方・足利氏満が高安寺に陣を置き、1399年には足利義満打倒の第3代鎌倉公方・足利満兼が陣を張り、この場所は軍事目的でこのように何回も使われています。

1423年は、常陸の小栗満重討伐の帰路に、第4代鎌倉公方・足利持氏が高安寺に仮政庁を設置しますが、翌年の失火にて伽藍が焼失し再建しています。
1438年には関東管領・上杉憲実を討伐するため、足利持氏が再び高安寺に陣を構えました。

1455年には、第5代鎌倉公方・足利成氏が500にて高安寺にて籠城し、攻め寄せた上杉勢2000と再度の分倍河原合戦(分倍河原の戦い)となりました。

戦国時代にも北条家が行軍の際に立ち寄るなど、軍事利用されており、度々の戦乱で衰退・荒廃しました。
そのため、江戸時代初期には青梅の海禅寺の末寺となり、曹洞宗に改めており、江戸時代には徳川家より寺領15石の御朱印状を受けています。

このように高安寺は陣城としての性格もあり、高安寺館又は高安寺城と呼ばれることもあります。
ただし、もともと陣所として使われた程度であることから、城としての遺構はほとんどありません。

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高林吉利の墓

高林吉利(高林市左衛門吉利)は、徳川家康の家臣であり、豊臣秀吉小田原攻めのあと、徳川家の直轄地となった武蔵・府中領の最初の代官に任命された武将です。

1592年2月には、旧押立村と常久村の大半を知行地としていますが、1594年に72歳で没しました。
その後、江戸時代に高林家の庇護を受けた高安寺は徐々に復興を果たしていきます。

野村瓜州の墓

野村瓜州(のむら-かしゅう)は、1736年に生まれで、府中宿の旅籠「四人部屋」の主人であり、漢学者の野村延陵、国学者の服部仲英から学び、漢詩人・文人・教育家として知られます。
その名声は当時の江戸の文人・趣味人の中で「四人部屋」の名を知らない者はいなかったとされます。
晩年は松羅園という私塾を開いて、子弟の教育にあたりました。
1811年10月28日に没しますが、高安寺の墓地に「瓜州先生墓」と刻まれた墓碑があります。

木曽源太郎の墓

木曽源太郎義顕は幕末の人物で、木曽義仲の25代末裔と称しています。
熊本の細川家にて兵法師範でしたが、脱藩して倒幕運動に参加しました。
明治維新後には神戸の湊川神社や、鎌倉宮の宮司を務め、晩年は府中にて暮らしたようです。

高林吉利の墓と野村瓜州の墓は、木曽源太郎の墓、高安寺の墓地にありますが、わかりにくいので、場所は現地の案内板を良く見てお参り願います。

高安寺の見学所要時間は約20分といったところです。
水場の付近に昔ながらのトイレがありますが、温水式洗浄トイレにはなっています。

高安寺への行き方・アクセスは、京王電鉄とJR南武線の分倍河原駅からは徒歩約10分です。
高安寺を見学して、旧甲州街道を東へと約10分歩くと「大國魂神社」もありますので、合わせて訪問したいところです。
高安寺の参拝者用無料駐車場は、下記のポイント地点が入口となります。約10台くらい止められそうです。
また、徒歩の場合でもそのポイント地点の場所からしか、境内には入れないようですのでご注意を。

分倍河原古戦場の碑

あと、分倍河原古戦場の碑もちょっと離れた場所にありますので、写真撮影致しました。

分倍河原古戦場の碑がある場所は、下記のポイント地点となります。
駐車場はありませんので、念のため記載しておきます。

大國魂神社(六所宮)と近藤勇の襲名披露試合
長沼城(東京都稲城市)と長沼五郎宗政
新田義貞とは~鎌倉を落とした男【新田義貞挙兵の地】
弁慶とは~武蔵坊弁慶の逸話や最後の地となった衣川の戦いと弁慶の墓など
関東の役職である鎌倉公方・関東管領・古河公方などを解説

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