成田長親とは~のぼうの城の愉快な主人公


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 成田長泰の弟で、兄の子である忍城(おしじょう)城主・成田氏長に仕えた成田泰季の子として1545年に生まれる。
 成田氏の本姓は藤原氏。家系は藤原師輔の流れを汲む家柄だ。(鎌倉時代まで活躍した武蔵七党の一つ・横山党出身の説も有。)

 成田長親の叔父にあたる成田長泰は、上杉謙信小田原攻め(1560年)の際、鶴岡八幡宮で行われた上杉謙信・関東管領の就任式があった際、成田長泰は下馬をしなかった。
 成田長泰が下馬しなかったのは、成田氏が藤原氏の名門で、祖先は源義家にも下馬をせず挨拶をしたという名誉ある家門であるため、古例に従い、下馬をしなかったとされているが、上杉謙信に扇で烏帽子を打ち落とされたため、成田長泰は兵を撤退させて忍城に戻り、以後、成田氏は小田原・北条氏の配下となっていた。
 成田氏は最盛期に総知行高六万貫(約30万石)を領しているので、経済力も決して悪くは無かった。
 
 成田長親の父である成田泰季は、成田氏長が成田氏の家督を継いだ際の功績もあり、発言力も強く頼りになる一門衆であった。
 一方、成田泰季の子・成田長親は、特に武勇に優れていた訳でも無く、政治力・統率力もこれといった実績を上げていない「凡人」の武将だったとされる。

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 1590年、成田長親45歳の時、豊臣秀吉小田原征伐(小田原攻め)が始まる。
 城主・成田氏長は、北条氏からの再三の要求もあり、成田氏の主力部隊を率いて、北条氏直小田原城に入り、小田原城籠城に備えた。
 その為、成田氏の本拠地・忍城は、城代として、成田長親の父・成田泰季が指揮したものの、城兵は僅かに数百程度であった。
 この頃にはもう老齢であった成田泰季は、病に伏せっていたとされ、忍城が豊臣勢に包囲された前後に、亡くなったと言う説があるが、戦死とする説もある。
 
 豊臣勢は、小田原城包囲だけでなく、山中城八王子城津久井城など、関東・北条氏の諸城も、次々に攻略していた。
 忍城には、成田氏家臣300と、領民などを含めて約2700の合計3000が籠城したが、石田三成を総大将に、軍師・長束正家、名将・大谷吉継、佐竹義宣、真田昌幸、宇都宮国綱、結城晴朝ら20000の大軍が押し寄せる。
 父・成田泰季が亡くなった事により、忍城に残っている一門衆で筆頭となった「成田長親」に忍城の城代と言う役目が巡ってきたと考えられる。
 
 石田勢は忍城を攻撃するが、戦国最強の姫武将とも言われる成田「甲斐姫」の武勇や、湿地帯を巧みに利用した成田氏家臣、正木丹波守酒巻靱負ら勇猛果敢な坂東武者の抵抗により、石田勢は大軍を持て余す。
 甲斐姫は、当主・成田氏長の娘だが、三宅高繁を討ち取るなどの忍城攻防戦など詳しい話は別ページに記載しているのでご覧願いたい。

 思いかげず忍城防衛の指揮官となった成田長親は、戦功を挙げさせてやろうという豊臣秀吉の親心から派遣されてきた石田三成・長束正家・大谷吉継・赤座直保らに攻め立てられるも、これを撃退する。
 力攻めでは、なかなか落ちないと悟った石田三成は、備中高松城攻めのように、堤防を築いて忍城を水攻めする戦法を取る。
 しかし、堤防が決壊して、逆に石田勢が兵を失うなど、なかなかうまく行かない。
 
 そんな中、北条氏の本城・小田原城が、豊臣秀吉に屈して開城・降伏する。
 しかし、成田長親が指揮する忍城は、北条氏が降伏したのちも、籠城を続けた。
 石田三成からの降伏をすすめる使者に対しても、「われら、餓死するより戦死を望む者」と言い放って抵抗した。
 最終的には、当主・成田氏長が忍城に帰還し、降伏するよう説得し、忍城は開城。
 
 小田原城が降伏してからも、籠城を続けた城は、この忍城だけであった。

 忍城を開城したのち、成田氏長と成田長親は共に蒲生氏郷の預かりの身となる。
 その後、豊臣秀吉の側室となった甲斐姫の尽力によって、成田氏長が下野烏山に2万石を与えられると、成田長親はそれに従って下野国に住んだ。
 しかしその後、成田氏長より、忍城篭城時に豊臣秀吉への内通を疑われた成田長親は、成田氏長と不和となり出奔。
 出家した後、尾張国の大須に移り住んで64歳で没したと言う。現在でも大須の大光院に墓があるようだ。

 
 成田長親の名誉のためにも記載しておくが、成田長親が「でぐのぼう」と言う話は、小説・のぼうの城での仮想な話である。
 実際問題、成田長親は歴史に残るような実績を全くあげてなく、成田長親が城代を務めた確証もない。
 しかしながら、成田長親も籠城したと考えられる「忍城」が、水攻めにも屈せず、最後まで徹底的に豊臣勢に対抗したのは、まぎれもない事実である。
 成田長親を慕っていたかどうかは、わからないが、成田氏は戦国の世にも関わらず、領内で「木綿」を奨励するなど、領民が領主・成田氏を慕っていたのは間違えではなさそうだ。
 堤防が決壊したのも、領民が手抜き工事をしたからなどと言う説もある。
 また、甲斐姫が成田長親に惚れていたと言うのも、完全な創作だ。忍城の戦いの際、成田長親には既に妻子がおり、嫡男は20歳代の武将で、小田原城に詰めている。
 このような事から、成田長親の人物像を想像豊かに膨らませたのが「のぼうの城」なのであるが、実に素晴らしく大変愉快な小説・映画で、小生も大ファンである。

■成田長親の妻

 成田長親の妻は、遠山藤九郎の娘とされている。遠山藤九郎は、北条氏の有力家臣である江戸城主・遠山綱景の嫡男。
 太田資顕の娘が、遠山藤九郎に嫁ぎ、のち成田長親の妻となる一女をもうけたが、遠山藤九郎は21歳で早世したため母子とも太田資顕に引き取られていた。
 太田資顕の妻は、妻は成田親泰の娘で、太田家の当主に太田資正がなると、太田資顕の妻と合わせて三人とも成田長泰に引き取られていた。その縁で、太田藤九郎の娘は成田長親の妻となったのだ。
 成田長親は推測で20~22歳くらいに結婚したと考えられ、忍城水攻めの際には長男・成田長季(成田源右衛門長季)は23歳、次男・成田泰家(成田仁右衛門泰家)は19歳。忍城攻めの際には小田原城に入っていたようだ。
 成田泰家は関ケ原の戦いにて、松平忠吉に属し、首級を挙げている。その後の尾張藩や紀州藩など徳川家・松平家に仕える武士には「成田氏」が多くいる。

■成田氏について

 成田氏の先祖は、藤原道長の孫子・藤原任隆であり、武蔵国の国司として幡羅郡に赴き、藤原任隆の子・藤原助広が「成田太郎」を称したのが始まりと言う説があるが、裏付けはない。
 別の説では、武蔵七党の横山党系図に、横山資孝の子の横山成任が「成田氏」を称したとある。
 成田系図では助隆を成田大夫とし、その子に成田太郎助広がいる。
 このように、系図上で「成田氏」として名乗っているのは成田助隆からで、成田助隆が成田氏の初代として考えられているが、少なくとも、鎌倉時代より前に、武蔵国北部を本拠としていたとみられる。
 この成田助隆から、成田親泰までの居城は上城。成田親泰が文明年間(1469年~1487年)に児玉氏を滅ぼして「忍城」に本拠を移したと考えられている。
 成田氏は鎌倉幕府創業期、御家人として活躍し「承久の乱」にも鎌倉幕府方として参戦している。
 越後の上杉謙信に屈服していたが。北条氏の配下になった際には、上杉謙信に攻め込まれ、忍城下まで焼き払われる損害を受けている。
 成田氏は武蔵国忍城主として、最盛期には総知行高60000貫(約30万石)を領していた大名であった。

■映画 のぼうの城 天下軍20000 対 忍城500騎

 映画では、豊臣勢の兵力が20000に対して、忍城籠城兵は 500 と宣伝していた。
 実際に、石田三成を総大将に忍城攻めした豊臣勢は、総勢20000程度だったと考えられる。
 それに対して、忍城にて籠城した成田勢の総勢は約3000だったと推定されているが、500と言う表記も、間違えと言う事ではない。
 しかし、どうして、500と3000の数が合わないのか?と言う疑問を感じた方もおられるだろう。

 
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 戦国時代の武士は、武田信玄も北条氏も家臣団がいたが、戦(いくさ)となると、その武士だけだ戦いに行くのではなく、武士以外にも必ず「農兵」を従えて出陣していた。
 だいたい、武士1人(1騎)に対して、3~4人の農兵がつくと言う構成であったのだ。
 農兵は普段は農業をしているので、戦いのプロとは言えない。すなわち、強くないが、戦で活躍が認められれば、褒美をもらえたり、実力もあれば出世もできた。
 しかし、田植えの時期や収穫の時期には、田んぼで仕事をしなくては、生計が立てられなく、大名も税収を得られず困るので、春と秋には、武田信玄も上杉謙信も北条氏も、休戦したり、撤退したりなど、「戦」を継続することはできなかったのだ。
 この難点を克服する為に、常に訓練した職業軍人だけで軍を構成し、農兵までは強制的に戦に駆り出さないと言う画期的な改革を行ったのが織田信長の「兵農分離」だ。
 織田信長の軍は、農兵をほとんど含まないので、強いし、1年中、いつでも軍行動をできたので、素早い出陣が目立つ。その流れをくむのが、当然、豊臣秀吉の軍なのである。

 北条氏や成田氏は、古来のやり方で、城に籠城する際には、農民・町民などの領民を城に入れて、農民なども戦力の足しにして籠城したのだ。
 すなわち、忍城に籠城した職業軍人は500人(500騎)だが、更に農民などが約2700程度、城に入ったので、合計だと約3000人と言う事になるのだ。
 
 ちなみに、大阪城よりも広大だった、小田原城の堀「総構え」も有名だが、そもそも、城になぜ「堀」があるのか?
 「堀」は敵の侵入を防ぐと言う防御目的よりは、戦局が不利になる事が多い籠城戦となった際に、お腹を空かして心理的に降伏しようとする農民や兵士が、簡単に城から逃亡できないように「堀」があると言う意味合いの方が強いのだ。 
 実際問題、堀が貧弱な城では、籠城戦の際、城兵の餓死と言うより、城兵の逃亡が相次いで降伏した城主の方が多い。

 →別途、清洲会議の詳細もございます。

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コメント

    • ひまなむじんくん
    • 2015年 10月 26日

    忍城の水攻めって本当にあったのかと思ったことはありませんか?
    ただ三成が色々準備をしただけで結局は水攻めをしていないような気がしています。

    関ヶ原のあたりでは戦略レベルで大失敗した三成ですが、別に戦下手というほど戦下手ではないと思うんですよね。
    パフォーマンスを除いてこの城に水攻めをする意味がまったくないと思うんですが、いかがお考えでしょうか?

    • 高田哲也
    • 2015年 10月 26日

    ひまなむじんくんさま、この度はコメントありがとうございます。
    忍城の戦いも、良く分からない事が多いですので、ご指摘のとおり、堤防の工事は始めたけど、水攻めまでには至らなかった可能性もあるとは存じます。

    1590年7月1日に、浅野長政や真田昌幸らが忍城を攻撃するも失敗しており、その報告を受けて豊臣秀吉は水攻めを指示したとも考えられます。
    そうなると、小田原城主・北条氏直が降伏したのが7月5日ですので、僅か4日間程の間に堤防が完成するのは難しかったことでしょう。
    そして、7月07日 忍城に豊臣秀吉からの上使が到着するも引き続き、忍城は籠城しています。

    ただ、7月1日の「水攻め」の指示を、堤防が完成したので、水を入れ始めると言う風に解釈することもできますし、実際に決壊したと言う伝承もありますし、不明な部分が多いですね。
    石田三成の戦下手については、石田三成の項目でも触れておりますが、譜代家臣がおりませんので、石田三成の自身の能力はあっても、優秀な家臣が少なく、そのような結果になったと小生は考えております。

  1. 2016年 1月 18日
  2. 2016年 1月 18日

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