吉川経家~自刃して果てる際の「首桶」を持参して鳥取城に籠城


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吉川経家(きっかわつねいえ)は、中国地方の名族・吉川氏の分家である石見吉川氏・吉川経安の嫡男として1547年に誕生した。母は吉川経典の女。幼名を千熊丸、通称は小太郎、式部少輔。

毛利元就が吉川本家を吸収するために次男・吉川元春を吉川氏当主として送り込むと、分家の石見吉川氏も毛利家に臣従した。

父・吉川経安が1559年に、川本温湯城主・小笠原長雄との戦いで戦功をあげ、福光城(不言城)を改修して殿村城から移転し、石見銀山の管理も任された。
しかし、1561年、尼子氏に寝返った石見国人・福屋隆兼・湯惟宗らが率いる尼子勢5000が福光城を攻撃した。
この頃、吉川経家は元服したようで、父・吉川経安と共に、当時まだ珍しい火縄銃を使うなどして撃退に成功。

1562年に、毛利元就が石見国の有力国人である本城常光一族を滅ぼした際に、父と共に毛利家臣として上山元忠らと山吹城を接収したと考えられる。

吉川経家の正室は境経輝(境氏吉川)の女。

1574年に父が隠居し、文武両道に優れた吉川経家が家督を継いだ。
しかし、領地経営は厳しかったようで、吉川経家の父・吉川経安は隠居の身にも拘わらず、吉川元春を介さず毛利家に直接、所領の追加をお願いしている。

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鳥取城籠城戦「鳥取城渇え殺し」

1581年、織田信長の命を受けた羽柴秀吉率いる中国討伐軍が因幡国まで侵攻。三木城を陥落させ、次に狙いを付けたのが因幡の鳥取城だったのだ。
毛利家に従属していた鳥取城主・山名豊国は、迫る織田家に降伏したが、徹底抗戦を目論む家臣の森下道誉・中村春続に追放されると言う事件が起こる。
森下道誉・中村春続は吉川元春に支援を要請。吉川元春は家臣の牛尾元貞を派遣したが、戦闘で負傷(討死?)した為、吉川元春は領地問題でしこりが残る吉川経家に1581年1月14日に「因州600石の地」を約束し、吉川経家を鳥取城に向かわせる事とした。

1581年2月26日、家督を13歳で元服前の嫡男・亀寿丸(のちの吉川経実)に相続させ温泉津の殿村城(高越城)を出発し、富田城にて吉川元春と決別の杯を交わし、海路で賀露湊に到達。3月18日、多くの出迎えを受けて400名の兵と共に鳥取城に入った。

この時、吉川経家は、自らの「首桶」を用意して持参したとされ、死を覚悟して入場した事がわかるが、山名家の家臣らは、ようやく骨のある城主が来たと喜んだと言う。

※異説では山名豊国は吉川経家が鳥取城に入城した時にも在城しており、吉川経家や鳥取城の情報を織田勢に密告していた事が発覚したために逃亡したとも言われている。

入城した吉川経家はさっそく鳥取城内の防衛を整備開始し、必要な兵糧の量の予測、支城の造営防衛ラインの決定などを行っている。
鳥取城の籠城兵は山名家が1000、毛利家(加番衆)・吉川家が800、近隣の籠城志願の農民が2000の、合計約4000人であった。
しかし、兵糧の備えが常備兵換算で3ヶ月分しか調達できなかったのだ。

これは羽柴秀吉の軍師・黒田官兵衛の策とされ、若狭の商人を鳥取城下に潜入させ、米を高値(相場の倍)で全て購入させたことで、その高値に目がくらんだ鳥取城の城兵も備蓄していた兵糧米を売り払ったので、既に領内には購入できる米もなく、兵糧はひと月持つかどうかも怪しい状態で、1581年7月12日、予想より1ヶ月早く羽柴勢を迎える事となった。

20000の羽柴勢(羽柴秀長堀尾吉晴、一柳直松、中村一氏、蜂須賀小六、黒田官兵衛、浅野長吉ら)は鳥取城を包囲し、城下に火を放ち、残っていた領民がただでさえ兵糧が乏しい鳥取城に逃げ込むように追い立てた。
8月25日には、兵糧を積んだ船を、細川藤孝配下の荒木勘十郎・松井猿之助らが撃退している。
完全な包囲網で食べる物が無くなった城内では牛や馬、ヘビやカエル、草や木の根も食べ、3ヶ月目には餓死した死体の肉も食べと言い「餓死した人の肉を切り食い合った。子は親を食し、弟は兄を食した」との記述が見受けられ、後に「鳥取の渇つえ殺し」呼ばれるようになる。
しかし、吉川元春は伯耆の南条元続と戦い、毛利輝元小早川隆景も備中・美作で、例によって毛利家は援軍を積極的に出せずにいた。
困窮を極めた鳥取城では、敵陣前の柵に駆け寄って助けを乞う者も続出。
4カ月目となった10月、吉川経家は森下道誉・中村春続らと相談し、城兵の助命を条件として降伏することとなった。

降伏すると言う吉川経家の奮戦を称え、羽柴秀吉は自害するのは山名豊国を追い出した森下道誉・中村春続だけでよく、代理の城主・吉川経家は領地へ戻すとの意思を伝えた。
しかし、吉川経家は自分が生き残る事を拒否した為、困惑した羽柴秀吉は織田信長に相談。織田信長は吉川経家の自害を許可した。

吉川経家は森下道誉と中村春続の助命を嘆願するも聞き入れられず、森下道誉と中村春続は、戦乱を起こした罪によって開城した10月24日の晩に切腹・自刃した。

1581年10月25日の早朝、吉川経家はも栄養失調でやせ衰え、満足に動ける状態ではなかったが、家臣と暇乞いの盃を交わし、具足櫃に腰を掛けて、脇差に紙を中巻きにすると、それを見守る家臣の座中に目をやって、大声で「うちうち稽古もできなかったから、無調法な切りようになろう」と言ってから切腹したと言う。享年35歳。介錯は静間某。

切腹の前日10月24日付で、吉川元春の三男・吉川広家に宛てた遺書(吉川家文書)があり、そこには「日本弐ふたつの御弓矢の堺において忰腹かせばらに及び候事、末代の名誉たるべく存じ候」と記している。織田と毛利という二大勢力のまさに「ふたつの御弓矢の堺(境)」において、毛利のために戦い切腹に至ったことを名誉に思うと綴っている。

また、自刃当日10月25日の遺書には父・吉川経安や、子供らへの書が5通中3通現存している。
さらに、自害の際には小姓・山県長茂が付き従っており、その経緯と模様を詳細に記述した為、このように後世に伝えたのだ。
このように、話を伝える者がいない結末は、のちの世には伝わらない・・。
江戸時代の赤穂浪士も切腹を免れた者がいて、詳しい話が伝わり、新選組の土方歳三の最後も同様に故郷に伝えて者がいる。

辞世の句「武士の 取り伝えたる梓弓 かえるやもとの 栖なるらん」と、吉川経家の首は、羽柴秀吉に届けられ「哀れなる義士かな」と言って男泣きしたと伝わる。
その後、安土城の織田信長のもとに送られると丁重に葬られた。

羽柴秀吉は、約束通り城兵・領民を助けるため、城門を出たすぐの山麓に大釜を設置して「粥」をごちそうしたと言う。
しかし、深刻すぎる飢餓状態だったため、急に多く食べた者には、死んでしまう者が続出したとも言われている。

吉川経家は、織田勢(羽柴勢)と合戦らしい合戦をしていないため「戦わずして後世に名を残した名将」として、現在では鳥取城に銅像が建てられている。

追放された山名豊国は、その後、徳川家康が旗本に召し抱え、79歳まで穏やかな生涯を送った。

落語家の三遊亭円楽さん(5代目)は、吉川経家の子孫であった。

現在、錦帯橋がある岩国城下に吉川経家弔魂碑がある。

吉川経家の墓

吉川経家の墓は、鳥取城の裏側で現在住宅地となっている小さな公園「円護寺吉川公園」の一角にあった。

たくさんの花も捧げられていて、今でも地元の方から愛されているのがよくわかる。

吉川経家の墓から見た鳥取城は下記になる。

吉川経家の墓がある場所は下記の地図ポイント地点の無料駐車場を利用して、公園の中にある。

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