立花道雪とは~戸次鑑連が雷神と呼ばれる由縁とその魅力

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立花道雪(たちばな-どうせつ)は、大友一門となる鎧岳城主・戸次親家の次男として1513年3月17日に生まれた。
母は由布惟常の娘・正光院。

近年になって生誕地が柳ヶ台、大分県民の森「四辻峠付近」と判明している。

父と母の夫婦は男子に恵まれなかったことから祚原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう)に子宝を祈願していたことから、幼名は八幡丸(はちまんまる)と名付けられる。
なお、長兄は早世したため嫡男として育てられることになるが、母である由布惟常の娘は幼い頃に亡くなり、父・戸次親家も病であったため、継母には一族である臼杵長景の娘・養孝院から養育を受けた。
傳役は海老名弾正。

1526年、元服前の14歳の時、大内氏が佐野親基・問田重安を豊前国に侵入させ、豊前の要衝である馬ヶ岳城を占拠すると、「我が父上の名代として出陣致す」と自ら志願。
3人の老臣の補佐を受けて初陣し、2000人の兵を指揮して、大内氏の豊前・馬ヶ岳城を攻めた。
戸次鑑連(立花道雪)は金の指揮旗を振って奮戦したとされ、5000と言われる大内勢に勝利して大内義隆より降伏同然の和睦を引き出す。

子の成長に安心したかのように、その直後に父・戸次親家が死去し、戸次鑑連(戸次孫次郎、立花道雪)は元服して家督を継いだ。
この時、戸次親守(ちかもり)、次に戸次親廉(ちかかど)と名乗っているが、主家・大友義鑑よりのちにその偏諱を賜って戸次鑑連と改名している。

このように立花道雪は、本来であれば戸次鑑連(べっき-あきつら)と呼ぶのが正しいが、その理由は後半にて明記する。

雷を切った勇将・立花道雪

10代の頃とも35歳の頃(1548年6月5日)とも言われるが、立花道雪は半身不随になった。
これは、故郷の藤北で昼寝をしていたところ、夕立で雨が振り出し、大樹の下で雨宿りしていたとされる。
その時、雷が鳴り、稲妻が襲ってきたところを、戸次鑑連(立花道雪)は愛刀千鳥を振りかざして稲妻を一刀両断したと言う。
そのため、下半身不随の後遺症が残ったものの、一命を取り留めた事から「雷神の化身」と噂され、以後の合戦では6人担ぎの「輿」に乗って指揮を執り、鉄砲や愛刀・雷切を振るったことから「鬼道雪」とまで呼ばれた。
大友義鎮(大友宗麟)の重鎮であり、老中・年寄に相当する加判衆も務めた戸次鑑連(立花道雪)は、勇猛果敢な伝説の武将であり、生涯の合戦は37戦で、37勝とされている。

戸次親宗の後見を受けて各地を転戦した戸次鑑連(立花道雪)であるが、1535年8月22日、肥後・菊池義武などを阿蘇・車返の戦いで勇猛奮戦して破っている。

1546年に、秋月文種が1度目の謀反をすると、大友義鑑の命を受け、佐伯惟教、臼杵鑑速、吉弘鑑理などと共に筑前・古処山城を攻略した。

1550年2月、二階崩れの変(にかいくずれのへん)となり、津久見美作、田口鑑親(田口新蔵人、田口蔵人佐)ら大友家の重臣が、大友館の2階で就寝していた20代当主・大友義鑑と、3男・塩市丸、その生母(側室)を襲撃。
後継者とされていた塩市丸が殺害され、大友義鑑は瀕死の重傷を負い、2日後の2月12日に死亡した。
これにより、大友義鎮(大友宗麟)が21代当主となり、海外貿易による経済力を背景に、巧みな外交と臼杵鑑速、吉弘鑑理、一万田鑑実、志賀親盛、高橋紹運、戸次鑑連(立花道雪)(38歳)ら優れた家臣によって北九州東部を平定し、最盛期には九州の6ヶ国を支配するまで領土が拡大することになった。

1553年、戸次鑑連(立花道雪)は異母弟の戸次鑑方の子である、戸次鎮連を養子に迎えて家督を譲ると、まだ41歳であったが隠居した。
しかし、隠居は名目上であったようで、1554年、戸次鑑連(立花道雪)は肥後に侵攻して菊池義武を自害させて滅ぼしたほか、1557年には毛利元就と通じた秋月文種を2万の兵で攻めて自害に追い込んでいる。

1559年8月からは筑前の宗像氏貞が支配する許斐山城、白山城、蔦ヶ嶽城に何度か侵攻し、1561年には豊前に出陣した毛利元就と戦った(第四次門司城の戦い)。
このような功績もあり、1561年に大友義鎮(大友宗麟)の加判衆を任じられている。

また、1562年に大友義鎮が大友宗麟として出家すると、戸次鑑連(立花道雪)も剃髪し、麟伯軒道雪と号した。

1567年、かつて討った秋月文種の子・秋月種実が毛利家の支援を受けて、秋月家再興のため筑前に入ると「休松の戦い」では、臼杵鑑速と吉弘鑑理を夜襲にて同士討ちとなる。
このように苦戦を強いられ、家督を譲っていた戸次鎮連の実父・戸次鑑方、叔父の戸次親久、従兄弟の戸次鑑比、従叔父・戸次親繁、戸次親宗、譜代家臣の十時惟忠、由布惟清、綿貫吉廉、与力衆の小野鑑幸(小野鎮幸の父)、三池親高など、多くの一門や家臣が討死したが、戸次鑑連(立花道雪)は冷静に対処・奮戦し戦功を挙げた。

大友家に不安を感じた原田隆種や宗像氏貞などが離反し、立花山城主・立花鑑載が毛利元就の調略に応じて叛旗を翻す。
戸次鑑連(立花道雪)は危機的状況を打開すべく、1568年4月24日から立花山城を包囲した。
3ヶ月にわたる攻城戦の据え、7月4日に立花山城の戦いの激戦を制し、立花勢の野田右衛門大夫を調略し、7月23日、立花山城は陥落させ、立花鑑載は自刃した。

その後、大友家の諸将と共に、毛利軍の清水宗知、原田親種・原田隆種なとぜを破り、筑前の反勢力を一掃した。
そのため、孤立した秋月氏、宗像氏、城井氏、長野氏、千手氏、麻生氏は降伏している。

そして、1567年11月25日、大友家のために忠死した問註所鑑豊の娘、仁志姫を継室に迎えた。
※正室は入田氏の娘であるが、既に亡くなっていたのかなどは一切伝わっていない模様。
1569年8月13日には、仁志姫(にし姫・西姫・宝樹院)との間に待望の実子となる立花誾千代が誕生したが、この時、戸次鑑連(立花道雪)は57歳である。

1569年1月、大友義鎮(大友宗麟)は50000にて肥前・龍造寺隆信の討伐を開始。
しかし、救援を求められた毛利家の吉川元春小早川隆景らが立花山城を奪還すべく来襲したため、戸次鑑連(立花道雪)は、肥後の城親冬を使者として送り龍造寺隆信と和睦を成立させた。
立花山城が陥落したため、大友勢は立花山城の毛利勢を攻撃。
戸次鑑連(立花道雪)は鉄砲800挺を2隊に分けて、自分が発案した「早込」(早合)と言う、1発分の火薬を詰めた竹筒の束を鉄砲隊の肩にかけさせる工夫にて「二段射撃」する戦法を先頭に立って指揮し、槍隊を繰り出したあと騎馬隊が敵中への突撃する「長尾懸かり戦法」で小早川勢を撃破した。

そして、山中幸盛(山中鹿之助)が尼子家再興の為、尼子勝久を奉じて出雲へ侵攻したことで、1569年11月、毛利家は北九州から撤退したため、立花山城を取り返した。

1570年からは、再び龍造寺隆信の討伐に加わり、龍造寺隆信、鍋島直茂と交戦。

1571年、これら長年の功績により大友義鎮(大友宗麟)は、戸次鑑連(立花道雪)を筑前の守護職に任命する。
そして、立花家の名跡を継承させ、戸次鑑連(立花道雪)に立花山城督を命じた。

立花家の名跡を継いだ訳ですが、大友義鎮(大友宗麟)は2度も謀反した「立花鑑載」と言う名を嫌ったようで、立花道雪は、1度も立花姓を名乗っておらず、戸次鑑連または戸次道雪で生涯通した。
ただし、一般的に戸次鑑連(戸次道雪)は「立花道雪」と呼ばれますので、ここからは立花道雪として記載させて頂く。
なお、城督と言うのは軍の支配・指揮権を与えられたと言う事で、立花道雪は筑前防衛に専念するため、加判衆を辞任している。

そして、高橋紹運などと数々の戦を繰り返した。

1575年には、大友宗麟の命にて、甥・戸次鎮連の子・戸次統連に立花家の家督を譲るように迫られます。
この時、立花道雪は拒絶し、重臣・薦野増時を養子に迎えようとした。
しかし、薦野増時がこれを拒んだため、ただ1人の愛娘である7歳の立花誾千代に家督と立花山城督を譲っている。

1578年、大友宗麟は立花道雪の反対を押し切って、島津家討伐のため日向へ侵攻を強行する。
立花道雪は従軍していなかった「耳川の戦い」で大友勢は島津義久島津家久の前に大敗を喫し、臼杵鎮続、角隈石宗、吉弘鎮信、蒲池鑑盛、斎藤鎮実、佐伯惟教、田北鎮周など多数の有力武将と兵力を失った。
これにより、大友家の勢力は大いに衰えることになり、家臣らの離反が相次ぎますが、立花道雪は高橋紹運らと最後まで忠節を貫き通す。

その後、1581年、すでに70歳の立花道雪の後継を心配した大友宗麟・大友義統は、改めて戸次鎮連の子から、しかるべき1人を養子にして「立花城」の家督を譲るように勧めた。
しかし、立花道雪は、戸次家からではなく、歴戦の親友である高橋紹運(大友宗麟の宿老・吉弘鑑理の次男)の長男・高橋宗茂(戸次弥七郎統虎)を養嗣子に迎えたいと、何度も高橋紹運に頭を下げている。
同じ大友氏の一族・家臣であった高橋紹運は、長男・高橋統虎を養子に出すのを最後には承諾し、立花誾千代と結婚させると、高橋統虎が立花宗茂と改名し、立花山城督となった。

1584年、沖田畷の戦い有馬晴信と島津家久が、龍造寺隆信を討ち取ると、勢いに乗る島津勢や秋月種実らに侵攻される。
これに対して、高橋紹運や朽網鑑康と共に立花道雪は良く戦い、筑後の大半を奪回した。

しかし、柳川城攻めの途中、高良山の陣中にて立花道雪は病に倒れる。
行動を共にしていた高橋紹運も必死に看病しますが、1586年9月11日に立花道雪は病死。享年73。

遺言と立花道雪の人物像

立花道雪は下記のような遺言を残しています。

我が死んだならば、屍に甲冑を着せ、高良山の好己の岳に、柳川の方に向けて埋めよ。これに背けば、我が魂魄は必ず祟りをなすであろう。

しかし、家督を継いでいた立花宗茂は「遺言はそうあっても、死骸をただ一人棄て置く事は、人のそしりを受けよう。立花に帰し入るべきだ。」と命じます。
これに対して、重臣の由布惟信は「遺言は重く背きがたい。我はここで切腹し、お供つかまつる」と言い、他の重臣らと殉死を願い出ました。

そこで原尻宮内少輔は「各々方が名誉を好んでそうする事が、果たして立花統虎(立花宗茂)公のために良い事か?。立花統虎公のためにこそ、腹を召されよ。」と叫んだことから、由布惟信は「尤もである。祟りがあるならば、この由布一族が罰を受けよう。」と述べ、立花勢は立花道雪の亡骸を伴って立花山城に帰還したと言われています。

下半身不随となり、歩く事もできない立花道雪に、家来らは忠実に誠実に支えて来ました。
障害者となった立花道雪が、紛れもなく、家臣らを大切に思い、配慮をしたため、その思いに家臣らも答えたことでしょう。

例え、戦(いくさ)で手柄を挙げられなかった家臣がいても「武功にも運不運がある」として「頑張りはいつも見ている」と励ますと同時に「焦って討死するのは不忠」であると説き、一生懸命に働く家臣らがいるお蔭で「年老いても敵の真ん中に出て、怯んだ様子も見せずに済む」と立花道雪は語っていたとの事です。

家臣団の中としては新参の重臣・薦野増時は、合戦での恩賞として立花道雪の隣に墓所を儲ける許しを得ました。
最後には黒田長政の家臣に加わった薦野増時ですが、立花山の梅岳寺にて立花道雪の墓所の隣に眠っています。

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