大坂夏の陣と言えば、真田幸村と後藤又兵衛の奮戦、豊臣滅亡の悲劇と見どころが満載の戦です。
一方、その様子を黒田長政が描き残させた『大坂夏の陣図屏風』には落城後に無差別な乱暴狼藉が行われ、女性などの弱者が蹂躙される様子が描かれており、当時の激烈な状況を今に残しています。
しかし、すべての非戦闘員が略奪や殺害の憂き目を見たかと言うと、それは否です。
戦国を生きた人々は、武士で無くとも乱戦を生き伸びる術を身に付けていました。その一人が、ここで紹介する豊臣家の侍女・おきくです。
おきくは慶長元年(1596年)、浅井長政に仕えた武士・山口茂左衛門の娘として生まれました。
彼女の祖父である山口茂介は1200石取りで浅井家に仕えており、貧乏だった頃の藤堂高虎の面倒を見たりと、重臣でなくとも生活には困らない家庭だったことがうかがえます。
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このおきく一家は浅井家と非常に縁深く、茂左衛門は浅井が滅亡して浪人になった時、茂介に救われたことに報恩すべく立ち上がった高虎の招聘で300石取りの武士として再仕官が叶った経歴があります。
また、若き日の茂左衛門が仕えたのがおきくの主人でもある茶々(淀殿)であり、浅井の生き残りに浪人の父娘が仕えると言う数奇な運命を辿っているのです。
紆余曲折はあったものの、侍女として淀殿に仕える女達の一員として華やかな日々を過ごしたて20歳を迎えたおきくが、歴史の表舞台に登場する事件が起こりました。
元和元年(1615)5月7日、彼女は大坂城長局で下女に蕎麦焼(こねた蕎麦粉を焼いた軽食)を作るように申しつけていた際、異変を察知します。
それは城が所々焼けているとの報告で、落城を悟った彼女がとった行動は、まさしく生き延びて再起を図ることを前提としたものでした。
おきくは、豊臣秀頼から賜った鏡を懐にねじ込むと帷子と下帯を三つずつ身に着け、金の延べ棒も持って脱走したのです。
「女性は外に出てはいけません」と制止する声も振り切って城外に出たおきくは、常光院(浅井初)の一行に駆け込み、助けを求めます。
その道中で豊臣家の馬印である金瓢箪が落ちていると「御馬印を捨て置いては恥」として壊し、追い剥ぎ目的で現れた凶漢に金の延べ棒を与えて反対に手懐け、藤堂家の陣まで護衛して貰うなど、豪胆と機知を発揮しました。
こうしておきくは窮地を脱しましたが、徳川方の藤堂家ではなく旧主の娘でもある淀殿についた父の茂左衛門は、おきくから紅白の指物を受け取って喜ぶ一場面はあったものの、最終的には戦死を遂げました。
父の死と言う痛手を受けつつも、おきくは生き延びて備前岡山藩に仕える田中と言う医師の妻となり、83年の天寿を全うしました。
大坂の陣を女性の視点から書いた『おきく物語』は、彼女の孫である田中意徳が祖母の体験談を聞き書きしたものが、現代まで残されたものなのです。
(寄稿)太田
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