江戸時代初期は戦国の遺風が残る時代でもあり、才覚で権力や富を掴み、政治に強い影響力を持つ人物を多く輩出した時代でした。その一人が、本項で紹介する河村瑞賢(かわむら-ずいけん)です。
河村瑞賢(通称・平太夫、諱はを義通)は元和4年2月15日(1618年3月11日)、伊勢国度会郡東宮村(三重県度会郡南伊勢町)に、貧農の息子・七兵衛として生を享けました。
瑞賢は出生に謎が多い人物で、生年については元和3年(1617年)説があったり、村上源氏の子孫で北畠氏の家来筋と自称するなど、不明瞭な点も見受けられます。
瑞賢は13歳で江戸に出て6~7年の間、車力など様々な職を転々とします。その時の逸話として有名なのが、小田原の宿で出会った老僧から『立身出世の相があるから、江戸でやり直して御覧なさい』と諭された逸話です。
その言葉に奮起した瑞賢は、お盆の精霊流しで使われたナスや瓜を拾って漬物にして売ることで資金繰りをし、資金と人脈を築いたと言います。
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また、明暦3年(1657年)に明暦の大火が起きて江戸が焼けた時には、自宅が燃えてしまうのも構わずに瑞賢は材木の産地である木曽に直行します。その際、材木を管理する家の子に小判で作った玩具を与える作戦で大商人を装い、材木の買い占めに成功した逸話も有名です。
これらのゼロないしは零細な状況から逆転を成し遂げるだけでなく、緻密な実地調査や情報収集で事業を成功させるのが瑞賢の強みで、それは幕府と接触して以降に発揮されていくのです。
寛文(1661~1673)年間に小田原藩主・稲葉正則(春日局の孫)と出会った瑞賢は、その商才を幕府の公共事業で用いることになります。
寛文11年(1671年)、瑞賢は阿武隈川の荒浜(宮城県)から本州沿いに南下した後、房総半島を迂回して伊豆半島の下田へ入り、西南風を待ってから江戸に入る東回り航路を開発し、従来の輸送方法を刷新しました。
翌年には最上川の水運と河口の港町・酒田(いずれも山形県)を利用して日本海沿岸から瀬戸内海を廻り、紀伊半島を迂回して伊豆半島の下田に行き、西南風で江戸に米を輸送する、西廻り航路を開発しています。
その際にも寄港地を定めたり、水先案内の船を設置させるなど、幕府の海運を飛躍的に向上させたのでした。
航路開拓と時を同じくして、瑞賢は河口に存在する港が土砂で塞がれる問題が起きた時、上流は治山、下流は治水と言った具合に一体的な整備をすることで、見事に解決しています。
幕府に仕える前まで土木工事に関する仕事をしていた、瑞賢らしいアイデアと言える策でした。
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淀川(大阪府)で治水工事が行われた時も、貞享元年(1684年)~4年(1688年)までの第1期、元禄11年(1698年)~12年(1699年)までの第2期に渡って瑞賢がその大規模な公共事業を受け持っています。
他にも鉱山の採掘や開墾などの事業を手掛けた瑞賢は、その功績を嘉されて晩年に旗元の地位を賜り、「天下に並ぶものがない富商」と新井白石に賞賛されました。
長年の知識で自分が住む霊岸島(東京都)の測量・開削を行ったり、松尾芭蕉と親交を持つなど文化面でも活躍した河村瑞賢は元禄12年(1699年)、82歳で世を去りました。
(寄稿)太田
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