妙印尼輝子 老いて最強の女性戦国武将 赤井輝子

妙印尼輝子

近年では戦国無双や信長の野望などのゲームや大河ドラマで女性の戦国武将がいることが世間一般に知れ渡ってきました。
有名所でいうと井伊直虎立花誾千代などが上げられますが、実は非常に異彩を放った女性の戦国武将もいました。

その名は赤井輝子(あかいてるこ)こと妙印尼(みょういんに)輝子です。

今回は一説では戦国最強の女武将としても知られている妙印尼輝子についてまとめてみました。


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妙印尼の生い立ち

妙印尼は永正11年(1514年)に産まれました。
父は赤井重秀または赤井家堅とされており、定かではありません。
出家する前は先述した赤井輝子と名乗っておりました。
夫は由良成繁(ゆらなりしげ)で上野国新田金山城の城主を務めていました。

成繁は下克上を行い、戦国大名として独立を果たした武将で上杉、北条という強大勢力を前に勢力を切り替え上手く立ち回りました。
上杉と北条の同盟である越相同盟の仲介役として動き、同盟を成立させた功績があります。
そして、成繁が天正6年(1578)に亡くなると妙印尼が活躍します。

妙印尼活躍の時

妙印尼が活躍するのは天正12年(1584年)の頃です。
その頃には出家し、輝子から妙印尼へと名前を変えます。
また、この年になるとこれまで培ってきた北条家との関係が段々とこじれてくるようになります。
北条氏直はこの関係を利用し、妙印尼の息子である由良国繁(ゆらくにしげ)と長尾顕長(ながおあきなが)たち兄弟を同盟を組む口実で茶会におびき寄せ、小田原城に幽閉します。


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国繁は金山城の城主であったので国繁が捕らえられたことで城主不在となります。
そこを北条氏照が攻めようと軍を向けますが、兄弟の代わりとして妙印尼が立ち上がります。
妙印尼は指揮系統が乱れている家臣たちをまとめ上げ、北条氏照に立ち向かいます。
この時、妙印尼は71歳という高齢でしたが、成繁亡き後の由良家を守るために妙印尼は反北条を掲げる佐竹義重佐野宗綱と連携を取ります。

翌年には兄弟は金山城と館林城との交換条件により明け渡されます。
しかし、兄弟は天正15年(1587)に反北条へと反旗を翻しますが、翌年には北条に降伏してしまいます。
その時、兄弟に残されていた桐生城と足利城を失い、再度小田原城へ移ることになります。

それから3年後の天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐が始まります。
この時も小田原城にいた兄弟は北条方として戦うことになります。
当然、妙印尼も息子たちのために北条方に味方するのかと思いきや、妙印尼は孫の由良貞繁と共に豊臣方へつきます。

前田利家の軍に加勢し功績を挙げた妙印尼は利家からの尽力もあり、秀吉から国繁と顕長の赦免と共に由良家の存続を許され、さらに常陸国牛久の所領を貰い受けました。
そして、牛久の地で文禄3年(1594)に81歳で亡くなりました。

妙印尼の孫はあの人

実は意外かと思いますが、妙印尼の孫にはなんと甲斐姫がいます。
甲斐姫は忍城の戦いで一躍有名になった女性の戦国武将であります。


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武勇の誉れ高さは妙印尼の血を受け継いでいるといっても過言ではありませんね。

(寄稿)拾丸

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