中条家忠 (中条将監) 古くから信長に仕えた家臣

中条家忠 (中条将監)

中条家忠(ちゅうじょう-いえただ)は、戦国時代の武将で、生年は不詳ですが、尾張の戦国大名織田信長に仕えていました。
中条将監とも呼ばれますが、出自については諸説あり不明といったところです。
居城は三河・八草城や、すぐ近くの三河・広見城ともされますが、よくわかっていません。
この付近、拳母城には中条出羽守などがいたようですので、織田信長が1561年に八草城などを攻略したあとに、同じ一族と言うことで、領地を与えた可能性も残ります。

しかし、それ以前から、中条家忠(中條家忠)は織田信長に仕えていた模様です。
1552年、清洲城主・織田信友との戦いになった「萱津の戦い」で既に織田信長勢として活躍しており、柴田勝家らと坂井甚介を討ち取りました。

1569年、大河内城の戦いでは、同族の中条又兵衛と参陣しています。

1570年、姉川の戦いの前での「八相山の退口」においては、佐々成政簗田広正と共に殿軍を務め、浅井長政の軍勢を退かせました。
この時、中条家忠は、簗田広正、佐々成政らと鉄砲を駆使して退却しました。
更には、続いて志賀の陣に出陣しており、着陣した知らせを受けたと言う、徳川家康からの書状も発見されているようです。

その後も、1577年には雑賀攻めなど、織田勢のとして多くの合戦に出ています。

1577年、本領に秀興山・正林寺を創建して間もなく没すると、正林寺に葬られました。

1582年、本能寺の変のあと、子の中条秀佳と、中条荘助(中条勝助)は、織田信雄に仕えています。
小牧・長久手の戦いの頃か、定かではありませんが、中条荘助は八草城が陥落したあと足助に逃れたとされています。
中条秀佳は朝鮮攻めにて討死したともあります。

いずれにせよ、わからないこと、不明瞭な点が多いです。

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