小寺氏職(こでらうじもと)は、黒田官兵衛が当初仕えていた御着城主・小寺政職の嫡男。生年は不明。
幼名や母の名は不明だが、2014年のNHK大河ドラマでは、小寺氏職の幼名を「小寺 斎」、母の名を「お紺」と想像で命名し制作した。
母は、同族・小寺福職の娘(名前不詳)である可能性もあるが、お祖母さんであるとも考えられ、史料に乏しい。
1576年の三木城の別所長治が毛利方への寝返り、1578年に摂津・有岡城主の荒木村重の反乱などに動揺した父・小寺政職は、 黒田官兵衛の言を入れず毛利方に寝返る。
三木城・有岡城が相次いで陥落すると、1580年、織田信長の嫡男・織田信忠の軍勢10000により、御着城は攻撃を受けた。
小寺政職は奮戦したが御着城から逃亡し、英賀を経由して、毛利輝元を頼り備後の鞆の浦へ逃れた。鞆の浦には、織田信長から追放された足利義昭も毛利家を頼って逃れていた。
この際、父・小寺政職と共に、斎(小寺氏職)も行動を共にしていたと考えられる。
しかし、毛利氏の吉川元春に小寺政職と小寺氏職は拒まれて、本能寺の変から2年後である1584年に、鞆にて父・小寺政職は没したとようだ。
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父を亡くした斎 (小寺氏職)は、黒田官兵衛を頼ったようである。
「氏職には罪はありません。私にとっては、旧主の嫡男です」と、黒田官兵衛は寛大な心で、豊臣秀吉に訴え、斎 (小寺氏職)は播磨へ戻ることが許さた。
飾磨津(しかまず、姫路市の南部、船場川河口左岸にある港町)に居住し、経済的には黒田官兵衛が支援したようだ。
1586年の九州征伐後に、黒田長政が豊前・中津12万石を与えらえると、黒田官兵衛により招かれ、中津へ移住して、小寺氏職は黒田家の客分となった。
1600年、関ヶ原の戦いの功により、黒田家が筑前・福岡藩に移封されると、それに従って200石となり、小寺加賀守氏職と名乗り、有庵と称したとも。
大宰府で余生を送ったとされ、1627年に大宰府で死去した。
小寺氏職の子は、いずれも福岡藩士となり、末裔には「職」の通字を代々称した家系(小寺清職(きよもと)の子孫)と、後に藤田氏と改姓した家系(藤田吉則(よしのり)の子孫)が伝わっているが、現在はいずれも小寺氏を名乗っている。
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