服部一忠とは
服部一忠(はっとり-かずただ)の名が最初に出てくるのは、1560年の桶狭間の戦いである。服部小平太、服部采女正、服部春安、服部忠次とも呼ばれる。
尾張津島の出身とも、丹羽郡大赤見村の住人ともある。
服部一忠(服部小平太)は織田信長の馬廻衆として桶狭間の戦いに参加したが、その時、敵の大将である今川義元の股(また)を槍で突くと言う一番槍の活躍をした。
その時、今川義元の反撃で膝を斬られて負傷したため、今川義元の首をとったのは同じ馬廻の毛利新助(毛利良勝)であったが、のち毛利新助(毛利良勝)は本能寺の変の際に、二条城にて織田信忠を守り奮戦の末に討死した。
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桶狭間のケガにより行政官となっていた服部一忠は、本能寺の変のあと、頭角を現した豊臣秀吉の馬廻・黄母衣衆として仕えている。
1585年には、豊臣秀吉のもと従五位下・采女正の官位を受けている。
1590年の小田原攻めでも服部一忠は戦功をあげ、1591年には尾張・北伊勢を支配した羽柴秀次の付け家老的な役割となり、伊勢・松坂城主として3万5000石になった。
ちなみに、この頃の山内一豊は掛川城主5石であるため、服部一忠も秀吉のもと、かなり出世した方だと言えよう。
1592年、朝鮮攻めでも渡航して漢城を攻めている。
1595年、豊臣秀次の切腹事件に豊臣秀次の家臣も連座し、服部一忠も所領没収となる。
また、桑名城主の一柳可遊(一柳右近将監)は徳川家康に、服部一忠(服部采女正)は上杉景勝に預けられ、横須賀城主・渡瀬繁詮は佐竹義宣に、明石則実(明石左近将監)は小早川隆景に、羽田長門守は堀秀政(堀久太郎)に、前野長康・前野景定の親子は中村一氏にそれぞれ身柄を預けられた。
上記の通り大名預かりとなっていた家老7名は全員賜死をたまわり切腹となり、1595年7月、服部一忠も切腹して果てた。
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なお、次男・服部勝長は、木村重茲に仕えていた大崎長行の養子となって、紀伊・徳川家の家臣になった。
連座とは
連座とは、他人の犯罪に関与したとして、連帯責任を問われて罰せられることを言う。
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