村上吉継(むらかみ-よしつぐ)は、来島村上家の重臣で、伊予・甘崎城主であるが、生没年などは不明。
最初は村上助右衛門尉と称しており、のち村上河内守吉継となっている。
村上吉継の本拠地・甘崎城(あまざきじょう)は、天崎城とも呼ばれた。
伊予・大三島の東端にある瀬戸甘崎から160mほど沖にある島城で、古城、岸の城、荒神城とも称される日本最古の水軍城である。
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村上吉継は大三島の大山祇神社(三島社)「地頭神主」でもあったようで、荒々しいイメージの水軍頭領ながら、文化人としての教養も深かったようだ。
村上吉継の所見は1554年9月、岩伽羅城の戦い(岩伽羅城合戦)があった際に、高野山上蔵院に報告した書状。
1561年には、豊前・蓑島沖の海戦では、能島・村上武吉、村上吉允、村上武満、村上吉郷、乃美宗勝らと水軍にて毛利家に協力し、大友水軍を討ち果たした。
1567年10月に来島村上家の当主・村上通康が死去すると、幼くして家督を継いだ村上通総(来島通総)を補佐して一族を率いた重鎮・村上吉継であるが、1564年には河野家の奉行としての活動も見られる。
1576年7月の第1次木津川口の戦いにも来島村上水軍を率いて、毛利水軍に加わり、九鬼嘉隆ら織田勢の水軍に勝利した。
1576年8月、西園寺宣久が鞆に到着した際、村上吉継は甘崎城から迎えの船を出している。
1582年、織田信長が本能寺の変で横死した年から、村上吉継の動向がつかめなくなる。
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豊臣秀吉が瀬戸内海の覇権を握ったあと、甘崎城(天崎城)は今治城に入った藤堂高虎の属城となったようで、従弟・藤堂良勝が甘崎城主となっている。
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