大石定久とは
大石定久(おおいし-さだひさ、大石綱周)は、高月城主・大石定重(大石信濃守定重)の嫡男として、戦国時代の1491年3月23日に生まれた。
弟に大石憲重(浄福寺主?)、大石定基(大石宗虎)、大石信吉、大石照仲(羽村の大石氏館主)、大石定顕、子に大石定仲、養子に北条氏照と大石定勝(園通寺が館跡)がいる。
そもそも大石家は、初代・木曽義仲から続く木曾家教の3男・木曽信重が、1334年に大石為重の婿養子となって、源姓木曾氏の庶家となった。
大石信重は、1351年、南朝方の新田義宗との笛吹峠の戦いにて先陣で戦功をあげ、1356年に武蔵の入間・多摩に13郷と言う広大な所領を得て二宮館(あきる野市)を構えた。
1384年には浄福寺城(八王子市下恩方町)を築城し、大石家は武蔵守護代として関東管領・上杉憲顕に仕え、宿老・重臣として君臨する。
1458年には大石顕重が高月城(八王子市高月町)を築城して本拠を移した。
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戦国時代に入ると伊勢宗瑞(北条早雲)と今川氏親が扇谷上杉朝良に味方して、1504年の立河原の戦いで関東管領・上杉顕定(山内上杉家)を撃破。
この時、大石家はもちろん、関東管領・上杉顕定に従っていたと考えられるが、1510年6月20日、長森原の戦いで関東管領・上杉顕定は敗れて自刃し、山内家は衰退していく。
それ以降、小田原城主・北条早雲の圧迫を受ける形となり、高月城では防備に不安があったため、父・大石定重は1521年、滝山城を築城して本拠を移した。
元服した大石定久(大石源左衛門尉定久)は柚木城主(由木城)となったが、37歳のときである1527年に父が死去し家督を継ぐと滝山城に移った。
1546年、河越城の戦いにて上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の連合軍が、北条氏康に大敗を喫すると、大石定久が従っていた上杉朝定が討死して扇谷上杉家が滅亡。
関東管領・上杉憲政も平井城へ敗走し、大石家は後ろ盾を失った。
この時、大石家は独立した小大名に脱却できず、北条家の力に屈して大石定久(大石綱周、大石道俊)(56歳)は北条家の軍門に下った。
そして、北条氏康の三男・北条氏照(由井源三)と大石定久の娘・比佐と結婚が決まり、北条氏照が大石家の婿養子になることが決まり、事実上、大石家は北条家に乗っ取られる形となる。
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また、北条氏照の補佐役として、北条家臣・松田康郷の子・松田四郎右衛門が、大石定久の弟・大石憲重の養子となって大石秀信と称した。
他にも松田康定の子・松田源七郎(松田惣四郎)が、大石定基(大石宗虎)の養子となって大石惣四郎(大石照基)と称しただけでなく、松田康定の娘が大石定久の長男・大石定仲の正室となり、大石直久を儲けている。
このように、徹底的に北条家に取りこまれて滝山衆と化している。
大石定久(大石源左衛門尉定久)は入道して心月斎道俊と号し、武蔵・戸倉城に隠居したが、上杉謙信や勝沼城主・三田綱秀らとも連絡を取り、なんとか北条家から脱却できないものかと試みている。
しかし、1563年、三田綱秀も北条氏照に辛垣城を攻略されてしまっている。
一説には、猿丸山(現在の野猿峠)に登って、浄福寺城(松竹城)方面を望んで自刃したとされ、大石定久の墓は柚木城跡である永林寺に江戸時代に移された。
いずれにせよ大石定久は1549年10月7日に死去。享年59歳。
滝山城には北条家から横地監物(横地吉信)、狩野一庵、中山家範と言った北条氏照補佐の重臣も送り込まれ、1559年、北条氏照(由井源三)が滝山城に入ると、正式に大石定久の娘・比佐と結婚し、北条氏照は大石源三と改名し大石家を継いだ。
別の説では北条氏照は最初に浄福寺城(由井城)に入り、大石家を継承したあとである1567年頃になって、初めて滝山城を築いたともされている。
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なお、松田家から入った大石照基(大石信濃守)は小山城(下野国の小山城)を任されていたが、1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際、八王子城の戦いにて奮戦。
その後、徳川家に仕えて松田惣四郎松庵と復姓すると結城秀康に2300石で召し抱えられている。
他には、上杉景勝の侍奉行に大石播磨守2050石、出身は武蔵とあり、子孫は上杉家の重臣になっている。
加賀藩給帳では300石・丸内三杏葉・大石太作とある。
また、下柚木村の大石氏系図所蔵者でもある百姓・伊藤氏の本姓は大石氏である。
江戸時代には大石定久の実子・大石定仲と養子・大石定勝が、八王子千人同心となって大久保長安に仕え、土着している。
下記は、由木城跡にある大石定久の銅像。
・滝山城の訪問記はこちら
・柚木城の訪問記はこちら
・高月城と圓通寺~大石家の本拠地(おまけ二宮城)
・北条氏照とは
・武蔵・戸倉城の解説~小宮憲明の築城で大石定久の隠居城
・大石宗虎の屋敷跡と大石宗虎の墓
・関東管領の上杉憲政とは~平井城と平井金山城
・上田朝直と武蔵・松山城の歴史~上杉/武田/北条/豊臣と何度も攻撃された松山城
・関東の役職である鎌倉公方・関東管領・古河公方などを解説
コメント
コメント ( 2 )
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大石家は山内の家臣ではないでしょうか。
割と扇谷と書かれる方を見かけますが、なにかあるのでしょうか。
確かに葛西城の大石家は地域的に扇谷に下ってる可能性は考えられるのですが、
なにか文献など残ってるということではないと思ってるのですが。
コメントありがとうございます。
精査致しましたところ、ご指摘のとおりだと存じますので、修正させて頂いております。
また、お気づきの点がございましたら、お知らせ願えますと幸いです。