日本戦国期の魅力の1つは、何と言っても日本全国に数多な戦国武将たちが割拠し、互いに政略や外交、そして合戦に鎬を削って、(時代小説やゲームなどの媒体の大きな存在に影響されているのも否めませんが)、我々現代人をも魅了するほどの人間群像劇を演じたことでしょう。
戦国期(室町後期)は、当時の政府(足利幕府)の権力が衰退し、政府公認の身分(守護大名など)や規制が失効。
所謂、日本全国は「戦乱」と「下克上」の只中にあり、政治的には混沌して時代でありました。
しかしその反面、農業生産力が大きく向上した上、商業・流通業も盛んになり、貨幣(商品)経済の大成長期でもありました。
その風潮の中で、勢力を急進させてきたのが、それまで幕府や守護大名の下、低い身分に甘んじていた国人(土豪/地侍)、馬借(流通)業、商工業人たち無名の『庶民(作家の隆慶一郎先生の言う所の「道々の者」)』たちであります。
正に、下が上に剋つ。
下剋上であります。
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上記の各地方の農・商・流通業など莫大な産業利益の源泉を抑え、幕府という中央政府に頼らず、力を蓄えて大きくなった勢力が戦国大名であります。
東北の伊達氏、関東の小田原北条氏、甲信では武田氏、北国の長尾氏や加賀一向宗、東海の駿河今川氏や織田氏、山陰山陽の毛利氏、九州の大友氏や島津氏、等々が十人十色の経済力や地盤で群雄割拠していました。
各地方の有力な諸勢力の中で最終的に天下の覇者いうべき存在になるのは、東海の織田信長の織田氏であることは周知の通りでありますが、それは信長がどの勢力よりも強大な経済力と、東海という政治の中心地であった京都(畿内)に近距離を本拠にしていた『地の利』を占めていたことが最大の理由であります。その大物である信長でさえも畏怖していたのが、甲信の武田氏と北国の長尾氏、即ち武田信玄(1521~1573)と長尾景虎(上杉謙信,1530~1578)であります。
2019年6月24日にテレビ朝日系列のクイズバラエティー番組『Qさま!』で、歴史のプロが選ぶ本当に強い戦国武将BEST15が放送され、番組中では有名戦国武将が「統率力」「政治力」「個の武勇」「知力」「人望」などを基準としてランキングされ、信玄が宿敵である謙信(4位)や信長(3位)を抑え、堂々の1位となっていましたが、この結果について筆者も反対ではございません!(尊敬する本郷和人先生がその時にご監修されていた理由もありますが)
皆様よくご存知の戦国の名将・信玄公の偉大さをわざわざ拙者如きが、改めで紹介するまでもございませんが、山間の甲斐国(山梨県)の戦国大名から出発し、政治外交に能力を発揮し、特に生涯苦心して戦国最強の「甲州武田軍団」を創り上げたほどの天才的軍事統率力によって、信玄没年直前(1572年頃)の武田領土は甲斐以外に、信濃国(長野県)・西上野(群馬県東部)・飛騨国一部(岐阜県北部一部)・駿河国(静岡県東部)などを支配。
後の天下人となる信長とその盟友・徳川家康が畏怖する「東国の覇者」として君臨していました。
武田信玄の軍旗『孫子の旗(風林火山)』に象徴されるように、精強かつ臨機応変に戦う「武田軍」を足下におさめながら、何故、信玄は信長や家康の後塵を拝し、東国の覇者から天下の覇者へと成り上がれなかったのか?「信長たちより遥かに年長であったから、先に信玄は病没してしまった」という理由もあるでしょうが、それ以上に信玄は信長より大きなハンディを負わされていたのであります。
それは「地理的な不利」、即ち『経済力』でございます!
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日本テレビ系列の人気長寿番組『笑点』(毎週日曜日17:30から放送)で、お馴染みの大喜利レギュラーのお1人であられる三遊亭小遊三師匠(水色)は、山梨県大月市のご出身であり、よく地元自慢をされて、同レギュラーであられる埼玉県秩父市ご出身の林家たい平師匠(オレンジ)との「掛け合い(通称:大月秩父代理戦争)」が大喜利の名物の1つとしてあまりにも有名でありますが、2007年年末に放送された大喜利スペシャルの際に、例によって小遊三師匠がたい平師匠を相手に「山梨には中央本線、国道20号線が通っているんだぞ!」と、直通で東京都心に行けるという、山梨の交通の利便さをご自慢されていましたが、現在のように山梨が開通的な地域として注目されるのは、やはり首都・東京の隣県であるのが大きな理由であります。
信玄在世の頃の山梨(甲斐国)は、急峻な山々に囲まれた東国の「陸の孤島」というべき地域でした。
江戸期の国学者・本居宣長が著した古事記伝に、国名「甲斐(カイ)」の由来として、「山の峡(間=カヒ)」つまり「山の間」を唱えております。
近年では、東西の東海道と東山道の交差点的位置で、東西の行政と交通の交わる「交ヒ=カヒ」という由来説もありますが、何れにしても古代より西国(畿内)を政治・文化の拠点にしている朝廷から見れば、甲斐国は深い山間にある東国というイメージが強かったことでしょう。
筆者も大好きであるコーエーテクモゲームスさんが開発販売されている大人気歴史ゲーム「信長の野望」では、全シリーズと通じで甲斐武田(信玄)勢力は、国力も並みの上はあり、信玄をはじめ、馬場・内藤・高坂・山県など武田四天王、真田父子といったとても能力優秀かつ義理堅い武将が多い上、兵力(騎馬兵)が強いという、正に無敵勢力ですので、武田勢力以外でゲームをプレイされる方の多くは、初っ端から好んで無敵・武田氏を攻めるというという自殺行為?をされないと思いますが、実際の武田氏は国力や家臣団の統制には、信玄以前から相当苦労しています。
信玄が出自とする鎌倉期以来の名門武家・武田氏(甲斐源氏)ではありますが、室町期の関東管領・上杉禅秀の乱(1416年)の際に、当時の甲斐守護であった武田信満が戦死したことにより、甲斐武田氏の勢力は減退し、甲斐国内では同族(甲斐源氏)の逸見氏・油川氏・穴山氏、守護代の跡部氏、有力国人であった大井氏や小山田氏などが台頭する内乱状態になります。
その内乱状態を鎮めて、甲斐武田氏を戦国大名化としたのが、信玄の父である武田信虎(1494~1574)であります。
信虎(旧名:信直)は、油川氏、大井氏や小山田氏との内紛状態を武力によって鎮圧し、甲斐国統一。
1518(永正16)年にはそれまで、武田氏の本拠地であった石和館(笛吹市石和)から相川扇状地上である「甲府」に本拠を移転、翌年の1519年には名門戦国大名・武田氏の本拠として有名な「躑躅ヶ崎館」と甲府城下町(武田城下町)の建築に着手し、館の周囲に有力国人衆を集住させる政策を断行しました。
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この政策に反発した逸見氏、栗原氏や大井氏を信虎は武力によって鎮圧してます。
因みに、この大井氏が信虎に降伏した証として、後に信玄の母となる大井夫人(瑞雲院)が信虎に輿入れしています。
信玄を主人公とする小説や大河ドラマなどでは、勇猛ながらも独善的な性格が災いし、信玄や家臣団の反発を招いた結果、追放されてしまうというヒール(悪玉)の役を負わされてしまう信虎ではありますが、この武田信虎という好戦的な猛将が存在し、武力を以って甲斐国を統一しなければ、次代の信玄の勇躍ぶりはもっと違ったものとなっていたことが間違いありません。
恐らく、晩年の信玄が、天下の覇者・織田信長の脅威になるほどの大勢力までにはならずに、甲斐信濃の2ヶ国のみを領したほどの勢力で信玄は生涯を終えていたかもしれません。
信虎によって成し遂げられた甲斐国の統一と、甲府への移転によって守護大名から戦国大名・武田氏の原型が造られたことになるのですが、それでも信虎は、傘下の家臣団や有力国人衆の統御に散々苦労した挙句、信虎政策に反発する家臣団によって永久追放されてしまっているのですから、苦労という曖昧な言葉では片づけられないほどの辛酸を味わっています。
家臣団や有力国人の推しによって武田氏当主になった信玄(当時は晴信)も、麾下の諸勢力の統率には苦労続きの連続であり、信玄が1547(天文16)年に、家臣団などの統制を確固にするために定めた分国法「甲州法度次第(通称:信玄家法)」でも、『もし私(信玄)が、法を違えた場合は、私も裁かれよう(晴信行儀に於いて、その外の法度以下に相違があらば、貴賤を選ばず目安を以て申すべし、時宜に依りその覚悟を成すべし)』という一条を加えるほど、配下に気を遣う必要に迫られたり、また家臣団の統制に苦労し続けている心境を、信玄は以下のように詠っています。
『頼まずよ 人の心のつれなさに 恨むほどに 夜も更けにけり』(「武田晴信朝臣百首和歌」より)
戦国最強のレジェンドとして後世に名を刻む武田信玄公が詠んだとは思えないほど、切なさを感じる和歌ですが、信玄という人物もやはり我々現代人と同じく、他人に気を遣って、必死に苦悩の日々を生き抜いていたことに共感も覚えます。
名将・信玄の数少ない負け戦で有名な「上田原の戦い(1548年)」では、武田軍先鋒であった重臣・板垣信方が独善的な行動によって戦死し、武田軍の敗因をつくり、板垣と武田氏重臣の双璧を成す甘利虎泰などの多く将兵も戦死しています。
物語では、それまで自軍の連戦連勝に増長した信玄を諫めるために板垣と甘利は、自らの死を以って信玄を諫めるという美談となっていますが、事実は逆であり、信玄は戦場で家臣団を統率できずに、先鋒大将である板垣が慢心して敵方に突っ込み戦死し、武田軍敗北に繋がったのであります。
我々が持つ信玄のイメージとしては、彼が持つ軍配の振り一つで、一糸乱れず武田軍が動くという「信玄=天下一の名将」というものですが、現実の信玄は、先述のように「我の強い家臣団」相手に苦労していました。
何故、信玄ほどの大人物でも配下の家臣団や有力国人衆の統制に苦労し続けたのか?その原点を辿ってゆくと、やはり彼らが本貫としている甲斐国という貧国に主因があったと思われます。
即ち、当時の主力財力であった米生産力(石高)が低い、農業後進地帯であったことです。
信玄死去の後年に豊臣政権によって実施された太閤検地(慶長3年)では、甲斐一国の総石高は僅か22万石しかありません。
この頃は、既に信玄が統治期に苦心して行った治水工事(有名な「信玄堤」)後でも、22万石しかないので、「釜無川(富士川)・笛吹川 以上は日本三大急流に数えられる」、御勅使川(水出川)などが本格的に整備されていない信虎期や信玄治世初期(1543年頃)は、もっと貧弱な石高であったに違いありません。
更に、甲斐は山々に囲まれ平野部が、即ち米穀を生産できる耕地面積が極度に少ないにも関わらず、前述のように、甲斐源氏の本家・武田氏以外にも、穴山・油川、大井・小山田など多くの一門、有力国人衆が国内の各盆地に半独立状態で割拠。
そして各勢力が互いに狭い平坦地を求めて拮抗している状態ですので、甲斐の武士団リーダーである守護の武田氏(信虎・信玄)にも易々と従わない「不羈の心=プライド」を、前述の諸勢力は旺盛すぎるほど持っていたのです。
正に、甲斐国内に蟠踞していた精強な甲州武士団(一門や国人)は、戦にも強いが自我も強いという典型的な「中世武士団」でした。
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「合戦などで従ってもいいが、その代わり我々の本領を安堵するのは勿論だか、こんな狭い山間の本領では実りが少なく、いつまでも豊かにならない。我々のリーダー(守護)ならもっと我々に楽な生活を補償しろよ!もしできないなら俺たちはあななに従いませんから。」
という気持ちを、(筆者が露骨に表現し過ぎてしまいましたが)、中世武士団の代表格である信玄配下の一門や国人衆は、リーダーである信玄(守護・武田家)に対して思っていたことでしょう。
何て傲慢な部下たち!と思ってしまう事も否めませんが、当時ではそれが鎌倉期に源頼朝を擁立して関東武士団が樹立した武士政権(鎌倉幕府)以来、武家リーダー(将軍や守護)と武士団(御家人・国人衆など)の関係でした。
つまり学校の歴史授業で必ず習った『御恩と奉公』というものであります。
信玄は、配下家臣団の生活を補償する責任があり、その手始めとして、甲斐国内で頻発していた洪水を防止するために治水(川除)工事、そして新田開発などの国力充実(内政)をする必要性がありました。
周囲を急峻な山々に囲まれ、盆地が多い甲斐国内は、ただでさえ農地に適さない土地柄であるのに、笛吹川や釜無川などの急流が洪水を引き起こし、農作物に被害を与えるので、その洪水を抑えるために信玄は武田氏当主になって(1541年)以来、約20年という長い年月を掛けて、有名な信玄堤を完成させ洪水の軽減を成功させました。
上記のように内政に力を注ぎつつ、国外遠征を行い、信濃や駿河などの攻略を果たすという功績を鑑みても信玄の偉大さが十分解るのですが、甲斐という恵まれない土地を本拠した信玄は、先ず国力を充実させてから漸く国外遠征を敢行できるという厳しい状況でした。
信玄晩年の宿敵となる織田信長は、信玄に比べると身分の低い家柄(奉行職、守護代の家臣)でしたが、当時有数の穀倉地帯であり、交通の利便性も良く、商工業が非常に栄えていた尾張国(愛知県西部)を本貫として、経済的に非常に恵まれており、即、尾張国外へ出撃できるほどの経済的余裕があったのです。
実際、信長は桶狭間の戦い(1560年)を経て、僅か3年後には本拠を清洲城から小牧山城に移転し、美濃攻略を本格化しています。
武田信玄とは全く違った速攻さで、信長は他国攻略に乗り出せたほど経済力・土地柄に恵まれていたのであります。
内政で国力を整えている信玄ですが、それだけでは甲斐国内を豊かにすることには限界があり、配下家臣団などに新しい土地などを与えることがでできず、彼らの生活を豊かにすることはできません。
そこで、信玄は国外遠征を敢行し、隣国の信濃国の経略に乗り出します。
ここから信玄以下の武田軍は一個の侵略マシーンと化した如く、信濃へ侵略してゆことになります。
武田氏による信濃攻略は、父・信虎以来の戦略であり、信玄もその戦略を踏襲することにより、諏訪氏・高遠氏・小笠原氏、そして強豪・村上氏などを20年以上の長い年月と犠牲を払って攻略してゆき、獲得した信濃の新領地を自分の家臣団に恩賞として与えてゆき、甲州武士団の忠誠心を獲得してゆき、結束力が固い天下無敵の武田軍を完成させてゆくのです。
しかしながらやはり信玄の経済的不利は続きます。
信玄が攻略した信濃は、確かに甲斐より国土が広く、石高も約40万石と甲斐より2倍の数値なのですが、信玄は20年以上の年月を掛けて、信濃一国40万石を漸く獲得しているのですから、現代風に言えばコストパフォーマンスが、よろしくないですよね。
そして、何よりも信濃攻略の結果、信玄生涯の宿敵となる越後の上杉謙信を刺激してしまい、軍神と称せられる謙信と10年以上の対決(川中島の戦い)を余儀なくされ、信玄の行動の大きな足枷となってしまいました。また強敵・上杉軍との合戦で、信玄の実弟で天下一の副将と謳われた武田信繫(1525~1561)など多くの有能な家臣たちを失うことになってしまうのです。
武田信繫がもし生きていれば、武田氏の将来(滅亡)は変わっていたであろうと言われているほどの逸材でしたので、信濃40万石を得るために信玄はあまりにも長すぎる時間と、貴重な人材を失ってしまったことが言えます。
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甲斐・信濃両国の領有に成功した信玄は、次いで西上野や飛騨国などの攻略を果たしてゆき武田氏やその配下家臣団の国力は豊かになったことは確かではありますが、信玄を含め武田家臣団やその領民たちの最大の地理的不幸は、どの地域も『海が無い』という1点に尽きます。信玄と同時期の有力戦国大名である信長や謙信を含め、北条氏康(1515~1571)・今川義元(1519~1560)・毛利元就(1497~1571)などは、当時、大いに発展していた「水上交通網=海(湾港)」を有し、海上交通の利権などで、豊富な物資や莫大な利益を得ていました。
壮年期の信玄が苦心して切り従えた国々には、気の毒と言っていいほど海が皆無であり、人や物資の往来および海上交通から得られるはずの恩恵とは無縁でした。
今川氏や後北条氏から信玄が受けた経済制裁「塩留め」はあまりにも有名ですが、他にも当時、主力兵器となりつつある鉄砲、それを稼働させるための黒色火薬(特に硝石)を海上交易で獲得ですることも困難であったに違いありません。
硫黄と並んで、黒色火薬の主原料となる「硝石」は、日本国内での入手はとても困難であり、火薬の開発地である隣国の中国大陸からの輸入に依存していました。
西の海(九州・瀬戸内海)を経て、当時日本最大の貿易港である堺に運搬される硝石は、東国かつ海を持たない信玄には入手困難な代物でした。
更に信長が足利義昭を奉じて上洛を果たした直後(1568年)、堺と、西日本と東日本の交通の要衝である大津・草津を抑え、数年後に敵対関係になる東国の覇者・信玄に対しての経済封鎖(硝石流通ストップ)を敢行したのですから、信玄および武田軍は、火薬が無いので鉄砲を使いたくても使えないという『ジリ貧状態』になってしまったのです。
上記については、信玄および武田軍が急峻な山々に囲まれた陸の孤島と言うべき場所し拠ることしか出来なかったという経済的不利が原因であり、信玄死後、武田軍の経済力を遥かに上回る信長率いる織田軍に敗退し、遂には滅ぼされることになるのですが、武田軍は第2次世界大戦における旧日本陸海軍の様であり、将兵は世界一勇猛果敢であるが、銃の弾薬が無い・戦艦はあるが重油が無い等々の悲惨な貧困状態により、物量作戦で来る英米ソ連合軍に完膚なきまで撃破される結果と同じであります。
「四方を山々に囲まれている。即ち、陸の孤島」
「国土が狭い」
「国内に急流河川が多く洪水が頻発し、農地が脆弱である」
「農地が脆弱=貧しい、家臣領民の統御が困難」
「海が無い=塩・硝石など入手困難」
以上のような地理的および経済的な不利を沢山背負った上の身上から戦国期を代表する勢力(東国の覇者)まで一代で成り上がった武田信玄。
先頃、お亡くなりになった作家の堺屋太一先生は、信玄のことを『中世戦国の最後の大巨人だった』と歴史番組にご出演された時に仰っておられましたが、結果的に信玄自身は信長や徳川家康(1543~1516)の対峙中に病死し、次代の武田勝頼(1546~1582)の代で不幸にも武田氏は滅亡してしまいますが、信玄が上記の不利や困難を乗り越えて天下人となる信長や家康を一時的ながらも追い詰めるほどの勢力を築き上げた器量は、天下一等であると筆者は強く思います。
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その証拠に、信玄に苦しめら続けてきた家康が、盟友である信長よりも信玄を強く尊敬し、信玄の内政や戦略を大いに学習し、武田氏滅亡後、その旧臣を多く召し抱えて、徳川氏の勢力強化に成功し、後の天下人になってゆくことはあまりにも有名であります。
以上のように、今回は戦国一の英雄・武田信玄が味わった経済的不利について、長々と記述させて頂きましたが、筆者が私淑する司馬遼太郎先生曰く、『不利な土地に拠ったからこそ、それに対する知恵や技術が磨かれる』というのも事実であり、信玄が自勢力や甲斐国を統治するために苦心して考案された『様々な技術』が後世の発展に大いに活かされることになるのであります。
次回は、英雄・信玄が不利な土地に拠ったからこそ誕生した技術などを紹介できればと思います。
(寄稿)鶏肋太郎
・武田信玄はじめとする甲州人たちは何故 偉大なテクノクラート(技術官僚)となったのか?
・織田信長が優れた経済感覚を持てた理由
・毛利元就 謀神ならぬ優秀な経済戦略家
・戦国武将と戦国大名の違い「わかりやすく解説」~家臣と家来の違いも
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