長谷川宗仁~辰蔵を急使として黒田官兵衛・羽柴秀吉に送る


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 長谷川宗仁京都の有力町衆であった長谷川宗昧の一族と考えられ、1539年に誕生した。
 藤原氏秀郷流尾藤氏系で大和の出身とも。

 武野紹鴎に師事して茶の湯を学び、今井宗久とは懇意の仲で津田宗及の日記にも度々名が見られる。

 1569年~1570年には、堺の今井宗久と共に、茶に親しんでいた織田信長と、織田勢に敗れて堺に逃れていた、かつての但馬領主・山名祐豊の会談に尽力。
 山名祐豊は西進する織田勢に加勢することを誓い但馬の領有を認められたが、この事から堺の町衆出身とする説もある。
 なお、山名祐豊を復帰させた事で、織田家は但馬生野銀山を確保。長谷川宗仁は今井宗久と共に但馬銀山(生野銀山)を支配した。

 長谷川宗仁は山名祐豊の但馬入国の際には同行したようで、1570年1月6日付けの書状にて、今井宗久からその事について労いの書状を受けている。
 また、1570年4月19日には生野銀山の横領を止める使者として今井宗久と共に再び但馬入りした。

 このようにして、茶人でもあった長谷川宗仁は「武士化」して行く。

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 1573年6月18日、下京で銀子や米の徴収を行った記録があるが、この時は織田信長の家臣たちに混じって活動しており、この頃より京での奉行活動を経て、次第に織田家の家臣に移行して行ったものと見られる。

 1573年8月24日には、織田信長の命により朝倉義景の首級を京へと送り、獄門にかけた。
 1578年元旦に織田信長が家臣12名を招待し主催した茶会の中に織田信忠・武井夕庵・林秀貞・滝川一益細川藤孝明智光秀荒木村重・長谷川与次・羽柴秀吉・丹羽長秀・市橋長利の要人と共に長谷川宗仁も名を連ねている。
 また、1月4日に万見仙千代(万見重元)邸で行われた名物茶器の披露会の参加者9人である武井夕庵・松井友閑・林秀貞・滝川一益・長谷川与次・市橋長利・丹羽長秀・羽柴秀吉にも長谷川宗仁の名が見え、織田信長がその実力を評価していたことが良く分かる。

 1582年3月の甲州征伐(武田攻め)には、織田信長の側近として同行。戦後に、武田勝頼・武田信勝・武田信豊仁科盛信の首級を京で獄門にかけるように命じられ、一条通の辻に4名の首級を晒した。

 しかし、1582年6月2日、明智光秀による本能寺の変で織田信長が横死すると、長谷川宗仁は即座に備中に布陣していた羽柴秀吉に辰蔵を送り、織田信長の死をいち早く報告した。
 黒田官兵衛の進言もあり、中国大返しを成功させた羽柴秀吉が山崎の戦いで、明智光秀に勝利すると、以後、> 長谷川宗仁は羽柴秀吉に仕え、側近として活躍した。

 1589年元旦には豊臣家の直轄領であった伏見の代官に任じられている。

 1591年、長崎の貿易商である原田喜右衛門が豊臣秀吉にフィリピン侵攻を提言しようとしたが、長谷川宗仁はこれに同調し、原田喜右衛門の進言を豊臣秀吉に取次ぎ、フィリピン侵攻を促している。
 なお、対フィリピン貿易の責任者として、豊臣秀吉が「ルソン壺」を独占的に買い占める為、日本からマニラ行きの船舶の制限をする為の朱印状を発給。長谷川宗仁と原田喜右衛門の許可状が無ければ、マニラに渡航できない状態となった。

 1592年にはフィリピン総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャスの使節として豊臣秀吉との謁見のために来日したドミニコ会士、フアン・コボを長崎で出迎えて、名護屋に案内し自宅に宿泊させて帰国までの世話をした。
 しかし、コボは豊臣秀吉からの書状を携えての帰路にも台湾沖で遭難した為、返書はフィリピンには届かなかったと言う。

 1593年には新たにフィリピン総督の使節としてペドロ・バプチスタ(フランシスコ会司祭。後の日本二十六聖人の一人)らが来日したが、長谷川宗仁と原田喜右衛門は彼らを日本に呼び寄せた主唱者であった。

 1594年4月には豊臣秀吉の書状を受け取ったペドロ・ゴンザーレスの船に乗り込み、自らもマニラに渡航した。

 名護屋城築城にあたっては本丸数寄屋や旅館などの作事奉行を担当。
 1593年5月23日には、明からの使者の饗応役を務め、1598年の醍醐の花見の際にも豊臣秀吉の側にて行動した。

 1600年の関ヶ原の戦いでは西軍・石田三成に協力し、細川幽斎が籠城した田辺城の包囲軍に参加したが、戦後には特に所領も減らされることなく許されている。
 以後、豊臣家を離れると徳川家康に仕え、北政所の使番を務めた。

 1606年2月9日に死去。享年68。
 遺体は自らが開基した京の長徳寺に葬られた。

 子の長谷川守知が、美濃長谷川藩10000石の大名となっていたが、その子、長谷川正尚は弟の長谷川正勝に3110石を分地した為に、長谷川家は10000石以下となり大名ではなくなった。

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