高坂昌信・春日虎綱とは~高坂弾正の事実を極力考えてまとめてみた


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春日源五郎は1527年に、甲斐・石和の百姓である春日大隈の子として生まれた。
1542年に父・春日大隈が死去すると身寄りを無くし、武田信玄の奥近習として仕えるようになった。
始めは使番であったが、1551年、25歳の時には武田の侍大将(足軽大将)となり、100騎を率いた。

この春日源五郎は、高坂昌信(こうさか-まさのぶ)、春日虎綱(かすが-とらつな)、高坂弾正(こうさか-だんじょう)などとも呼ばれる。
他にも、香坂虎綱、高坂昌宣、高坂昌忠、高坂晴昌、高坂晴久などの呼び名がある。

1553年、高坂昌信(春日虎綱、高坂弾正)は小諸城代となったようだが、4月に信濃・牧城主である香坂宗重が武田信玄に臣従。
そして、高坂昌信(春日虎綱、高坂弾正)の正室は香坂宗重の娘であることから、こののち養子として入ったのであろう。
1556年5月12日に、海津城主だった小山田昌行(小山田備中守昌行)が雨飾城へ移った領地替えで、香坂家は現在の松代を知行した。
こうして、松代に移った香坂宗重が建てた屋敷(城)が「弾正館」とも呼ばれているので、恐らくは、婿殿として高坂昌信(春日虎綱、高坂弾正)も既に養父と共に海津城にあったことを裏付けていると言えよう。
そして、松代の「海津城」が大幅改修され、上杉謙信に対する最前線を任された。
なお、香坂城(高坂館)は、1557年の第3次川中島の戦いで焼失している。

1559年にには、高坂弾正左衛門尉から、春日弾正忠へと名称を変更し、姓名を元の春日に戻している。
なお、養父・香坂宗重は、第4次・川中島の戦いの直前、上杉謙信との謀反の疑いを掛けられ、1561年5月に海津城にて誅殺されている。

これにより香坂嫡流は途絶え、春日虎綱(高坂弾正忠)(35歳)が名跡を継承し、海津城代として川中島衆を率いた。

そして、三方ヶ原の戦なども参陣してはいるが、上杉家を牽制する為、出陣していない合戦も多い。

武田勝頼の代になり、1575年、長篠の戦いの際にも高坂昌信(春日虎綱、高坂弾正)は海津城にて守備していたが、嫡男・高坂昌澄は代理で出陣し長篠にて討死している。
なお、この時、戦場離脱したとされる親族衆の穴山信君武田信豊の切腹を、武田勝頼に進言したとも言われている。

1578年、上杉謙信が亡くなったあとに起こった「御館の乱」では、武田信豊と上杉景勝との交渉を開始し甲越同盟に貢献。
しかし、体調を崩したようで、1578年6月8日以降の史料から、高坂昌信(春日虎綱、高坂弾正)の名は消えている。

高坂昌信(春日虎綱、高坂弾正)が死去した日は、1578年6月14日が有力なようだが、他には5月7日、5月11日などがある。享年52。

いずれにせよ、高坂家は次男・春日信達(高坂昌元)が海津城代と甲越同盟の交渉を継承した。

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下記は春日虎綱(高坂昌信)が1553年に諸堂を修理し、玉山春洞を招いた明徳寺となる。(トップ写真)
この明徳寺・本堂の左手に、春日虎綱の墓(高坂昌信の墓)がある。
下記の看板が目印となる。

中央の墓が春日虎綱の墓で、右側に並んでいる五輪塔が家臣だった小池主計の墓(こいけしゅけい)らしい。

関ヶ原の戦いのあと、松代城に入った松平忠輝からは寺領20石を寄進され、以後も松代藩主・真田信之ら歴代より保護されたと言う。

なお、明徳寺の墓地には、硫黄島の戦いにて名高い栗林中将、栗林忠道の墓もある。
長野出身という事は存じていたが、高坂昌信と同じ明徳寺が菩提寺だとは知らなかった。

高坂昌信と栗林中将の墓がある松代・明徳寺の場所だが、下記の地図ポイント地点が駐車場となる。

さて、江戸時代に入って大名や武士らの間で良く読まれた軍学書「甲陽軍鑑」を執筆したのは、甥の春日惣次郎と家臣・大蔵彦十郎とされ、小幡昌盛の子・小幡景憲が完成させた。
そのため、甲陽軍鑑では「逃げ弾正」の異名を取ったなど、高坂昌信(春日虎綱、高坂弾正)が優秀な武将であったと記載されているが、そもそも甲陽軍鑑が正しい事ばかりを記載しているとは疑いがある。

よって、これまで約1000記事、このサイトに武将らの話を公開してきた小生も、最初の頃は高坂昌信の本当の姿が良く理解できずにいた。
その為、長年、高坂昌信に関しての記事は遠慮してきたが、ようやくこのように公開できるまでに理解が進んだ訳である。

そのため、上記の部分では、信憑性が疑わしいところは、極力省いて、事実に近い記載を心掛けてみた。
しかし、甲陽軍鑑の影響で高坂昌信のウソ/ホントが、よく分かっていない部分があるのも事実であり、是非、皆様からのご意見も頂戴しつつ、より完成度の高い内容にできればと願っている。

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