清水宗治 日本一の武辺者と呼ばれた名将の壮絶な自刃(史跡写真も)

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清水宗治とは

清水宗治(しみず-むねはる)が毛利家に臣従する前の事は、諸説があり定かではありませんが、清水宗治は1537年に、備中国賀陽郡清水村(現在の岡山県総社市井手)で生まれたとされています。
父は清水宗則(備中清水城主)で、清水宗治は2男だったともされます。幼名は才太郎です。

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この頃の清水家は、戦国大名・三村家の重臣だった石川久式に仕えていたようです。
要するに、家臣の家臣(家来)ですね。
しかし、石川家から離反すると毛利家に付き、石川家が滅亡した功績により、清水家は毛利の小早川隆景から、石川久式の出城だった備中高松城を預けられたと考えられます。

別の説では、三村家譜代・石川家の娘婿・重臣の立場であった清水家でしたが、毛利家に加担し、高松城主の地位を得たともされます。
また、1565年に三村家譜代の石川家を裏切って、備中高松城を奪取し、毛利家に臣従したとする説もあります。
まあ、諸説あります。

いずれにせよ、毛利家に臣従したあとは、小早川隆景の配下として毛利家の中国平定に絶大に協力した為、毛利家からの信頼は厚かったようです。


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備中・高松城の水攻め

1582年4月、天下統一を進める織田信長の家臣・羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)30000に宇喜多勢10000が加わって合計40000にて中国攻めをした際に、清水宗治は、娘の嫁ぎ先である経山城主・中島元行を副将に迎えて家臣と3000~5000にて備中高松城で籠城しました。
羽柴秀吉は蜂須賀正勝黒田官兵衛を使者として出し、降伏すれば備中一国を与えるという条件を出しますが、清水宗治は丁重に断ったと言われています。
そのため、黒田官兵衛の策もあり、羽柴勢は難攻不落と言われる備中高松城を水攻めを行いました。

足守川を堰き止めた堤防は全長3キロ、高さ7.2メートルで、多額の資金を投入し、たった12日間で5月19日に完成したと言います。

毛利勢も吉川元春・小早川景隆ら主力40000にて援軍を出しましたが、積極的に清水宗治を救援するまでには至らず、羽柴秀吉との和睦を模索しました。

その水攻めの最中の1582年6月2日に、明智光秀本能寺の変で、織田信長が死去します。
織田信長の死を知った羽柴秀吉は、早急に明智光秀を討つため、羽柴秀吉は安国寺恵瓊を呼び、織田信長の死を伏せたまま和平交渉しました。
こうして、備中高松城の清水宗治の命を条件に、城兵を助命する講和となったのです。

その結果、清水宗治は、織田信長の死を知らぬまま、その2日後(1582年6月4日)に兄・月清入道や、家臣2人らとともに、小舟で高松城を出て羽柴勢の近くまで行き、舟の上で「舞」を舞ってから兄・月清入道と、弟・難波伝兵衛、老臣・白井治嘉、毛利家より軍監として加勢していた末近信賀(末近四郎三郎信賀)らとともに潔く切腹しました。


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辞世の句は「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」
享年46。

清水宗治自刃の地

下記は、清水宗治自刃の地となりますが、訪問時は整備工事中でした。
本来であれば、きちんとお参りしたかったのですが、望遠にて撮影だけさせて頂きました。

清水宗治自刃の地

この清水宗治の切腹は、潔く腹を切り、介錯人に首を刎ねさせたもので、見事であった事から、以降、武士の切腹作法は名誉ある死として定着する事になりました。
羽柴秀吉は、織田信長の敵討ちのために一刻も早く京へ戻りたいところでしたが「名将・清水宗治の最期を見届けるまでは」と陣から動かなかったとされ、後に小早川隆景に会った際には「宗治は武士の鑑であった」と絶賛したと言います。

ごうやぶ遺跡

清水宗治自刃の地のすぐ南側の田んぼの中に「ごうやぶ遺跡」があります。

ごうやぶ遺跡

遺跡と名がつくと、縄文や弥生と勘違いしそうですが、戦国時代には、備中・高松城「三の丸総門」のわきでした。
1582年6月4日、死出に向かった清水宗治の舟を追ったのは、若き与十郎と七郎次郎の2人でした。

ごうやぶ遺跡

清水宗治の兄・月清入道の馬の世話をしていたのが与十郎で、清水宗治の草履取りをしていたのが七郎次郎と言うことになるそうですが、この2人は毛利の為に残れと同行を許可されなかったと言います。
そのため、2人は「一足先に三途の川でお待ち申します」と言い、ここで互いに差し違えて自害しました。

清水宗治位牌堂

自刃の地からすぐ脇にある「星友寺」の境内には、清水宗治位牌堂があります。

星友寺

星友寺は、水攻め後、備中高松城主となった宇喜多家の家臣・花房正成が建立したようです。

清水宗治公首塚

備中・松山城の本丸部分には、清水宗治の首塚があり供養されています。

清水宗治の首塚

当初は、首実検をした黒田官兵衛の陣があった石井山にありました
豊臣秀吉が、当時石井山にあった持宝院に供養塔を建てさせたと言いますが、明治に入って本丸に移されたとの事です。

清水宗治の胴塚

自刃した清水宗治の首は、船上で介錯を行った家臣の国府市之允によって検視役・堀尾吉晴に渡されました。
そして、首なき遺骸(胴体)と共に備中高松城へ帰ると、ここ池ノ下丸に穴を掘り、遺骸を葬ったといいます。

清水宗治の胴塚

役目を果たして、国府市之允は、自らここで首を掻き切って、殉死したと伝わります。

備中・高松城に関しては、城旅人サイトにて詳しくご紹介していますので、割愛させて頂きます。
なお、各史跡の位置関係は、当方のオリジナル地図で確認できます。
備中高松城の戦い 備中高松城の水攻めの史跡なども別途あります。

清水宗治の子は3人おり、中島元行が後見を努めました。
長男(但し庶子)の清水宗之は、豊臣秀吉から大名取り立ての打診も断り、毛利家の家臣となりました。
1600年の関ヶ原の戦いの前哨戦・安濃津城攻防戦で、清水宗之は討死し、次男の清水景治が跡を継ぎました。


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清水景治は防長移封後の毛利家の財政難に対して、益田元祥とともに財政再建に尽くして活躍しています。
そして、清水家は長州藩寄組として幕末まで続きました。
 
清水景治の子孫に22歳で長州藩の家老となり、禁門の変の責任を取って1864年に自害した清水清太郎親知がいます。

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