春日信達(かすが-のぶたつ)は海津城主・高坂昌信の次男として生まれたが生年は不明。幼名は惣次郎。
父・高坂昌信は春日虎綱(高坂弾正)と言い、武田信玄の譜代家老である。
兄に1551年生まれの高坂昌澄がいるが、長篠の戦いにて討死している。
春日信達の姓名は一般的に高坂昌元(こうさか-まさもと)として知られるが、父・高坂昌信も高坂姓を名乗ったのは僅かな期間であるため、最近では春日信達(春日昌元)として紹介されることが多くなっている。
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春日信達は御館の乱にて出陣するなど、上杉景勝との外交交渉も行っていたが、兄が長篠の戦いにて亡くなったあと、春日信達が春日家(高坂家)の跡継ぎとなった。
1578年5月、父・春日虎綱(高坂昌信)が死去すると、春日信達は海津城主として甲越同盟などに貢献した。
なお、春日信達は1579年3月頃までに三枚橋城主(沼津市)として赴任し、北条氏直を牽制することになったため、海津城主は安倍宗貞が務めている。
1582年2月、織田信長の大軍が甲州へ攻めて来ると、春日信達は三枚橋城を捨てて、武田勝頼がいる新府城へ馳せ参じた。
ただし、近隣の戸倉城が北条勢に落とされて、逃げて来たのであろうと、武田勝頼の側近・長坂光堅によって退けられている。
武田滅亡後、北信濃の領主として海津城に入った森長可に臣従した。
しかし、明智光秀による本能寺の変にて織田信長が横死すると、岐阜へ戻ろうとした森長可に対して、武田旧臣の一揆勢を率い、森長可と戦った。
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森長可は、春日信達が人質として出していた子・春日庄助(森庄助)を引き出して、家臣・大塚次右衛門に春日信達ら一揆衆との交渉をさせている。
裏切った春日信達らに不満を抱く森勢は、松本まで退却したあとに人質開放する代わり、森軍とは戦わないよう求めた。
しかし、千曲川周辺にさしかかった時、一揆衆は攻撃に出て、猿ヶ馬場峠まで進んだ森長可が反撃し、戦闘となり撃退されている。
そのため、今一度、大塚次右衛門に春日信達ら一揆衆は交渉の席を設けたが、森長可は松本まで逃れると、約束を反故にして、森長可が自ら春日庄助(森庄助)殺害するなど、他の人質も殺して信濃から撤退していった。
その後、春日昌元は上杉景勝に臣従した。
川中島を手に入れたい北条氏直は、真田昌幸が主張した上杉景勝と決戦を挑む為、真田昌幸が春日昌元を調略した。
しかし、北条家と内通し上杉勢を挟み撃ちにする計画が、密使が捕えられたことにより発覚し、1582年7月13日、上杉景勝は騙し討ちによって春日信達を誅殺した。
このため、高坂氏嫡流は滅亡し、北条氏直は上杉家との決戦は諦め、甲斐制圧の為、転進している。
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また、1600年3月、初代の川中島藩主となった森忠政(森長可の弟)は、残っていた春日昌元の一族を探索し、18年前に森長可の信濃撤退を妨害した罪で、春日一族全員が磔刑に処されている。
大河ドラマ「真田丸」では、春日信達を前川泰之さんが演じられた。
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