人吉の戦国武将である相良頼房、深水宗方、犬童頼兄を中心にご紹介します。
相良頼房(さがら-よりふさ)は、人吉城主・相良義陽の次男として1574年5月4日に生まれました。幼名は長寿丸。
母は豊永長英の娘・了信尼です。
この頃はすでに薩摩統一を果した島津義久の勢力が迫っており、1572年には、木崎原合戦で伊東義祐と連合を組むも、島津義弘の奇襲で大敗していました。
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1575年、織田信長の依頼を受けたた前関白・近衛前久が相良義陽・島津氏・伊東氏・大友氏に和解を勧め、台頭していた毛利輝元を討とうと、近衛前久が人吉城を訪れます。
朝廷の要人の来訪を受けたのは、相良家としても初めてだったようで、父・相良義陽は近衛前久を丁重に迎え入れ、臣下の礼を取りました。
この礼節に近衛前久も非常に感謝したと伝わり、そして、島津義久に一時停戦を受け入れさせています。
しかし天正6年(1578年)、島津義久が大友宗麟を耳川の戦いで破ると、1579年には再び戦火となり、1581年には島津家が大軍で水俣城を包囲しました。
そのため、父・相良義陽は降伏して葦北郡を島津家に明け渡し、子の相良忠房や相良頼房を人質として差し出しています。
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相良忠房(さがら-ただふさ)は、相良頼房から見て2歳年上の兄となります。
人質として出された同年1581年、父・相良義陽は島津義久より再三に阿蘇惟将攻めを要請されたため、それまでの阿蘇家の軍師で御船城主・甲斐宗運との不戦の誓いを破って出陣しました。
八代から娑婆神峠を越えて、堅志田城や甲佐を攻めています。
この決意を知った薩摩の島津義久は、相良義陽の忠義を信用したため、人質になっていた嫡男・相良忠房と弟・相良頼房は直ちに人吉城へ戻されています。
しかし、1581年12月2日、響野原の戦いにて、父・相良義陽は甲斐宗運と戦って討死しました。享年38。
相良義陽は、どうも守備には不適切な響野原(響ヶ原)(宇城市豊野町糸石)をわざと選んで本陣を置いた節があります。
甲斐宗運は相良義陽の本陣を奇襲し、相良勢は壊滅しましたが、退却を勧める家臣の進言を無視して、床机に座ったまま相良義陽は敵兵に討たれたとあります。
下記は御船城からほど近い相良塚(相良義陽の首塚)。
下記は、相良義陽が本陣を置いた響野原(響ヶ原)(宇城市豊野町糸石)の相良神社(相良義陽の墓)。
この相良堂(相良神社)は相良義陽終焉の地とされています。
2016年熊本地震の影響で、石の祠は完全に崩壊してしまっていました。
響ヶ原古戦場・笠塔婆なども破損しています。
このように石楼などが地震で崩壊しているのはここ相良堂だけではありませんが、被災されている皆様の1日も早い復興を願うばかりです。
相良堂や相良塚の場所は、下記のオリジナルGoogleマップにある「熊本」をご確認願います。
話を戻しますが、家老・深水長智(深水宗方)の働きにより、家督は長男の相良忠房(10歳)が継ぎ第19代当主となりました。
奉行には深水頼金・深水宗方・犬童頼安(犬童休矣)が就任し、政を担当しました。
しかし、長年、家中で意見の食い違いがあった叔父・相良頼貞が権力を掌握しようと、1581年12月22日、多良木城主・岩崎加賀を味方につけて蜂起し、どうも人吉城を攻撃したようで、武勇名高い岡本頼氏が負傷したと言う記録があります。
深水長智と子・深水摂津介、犬童休矣と子・犬童頼兄らが「人吉城の者は頼貞に従う意志があるが、上球磨の者達の意志が不明である為、出向いてほしい」との虚言を伝え、相良頼貞を言いくるめます。
その間に、救援要請を受けた島津義久は使者として久無木狩野を派遣し、相良頼貞を包囲して説得。
この謀反を成功させる難しさ論されると、相良頼貞は日向の伊東家へ逃れました。
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弟・相良頼房の名は、兄・相良忠房より与えられた名であり、兄弟仲も良好だったようです。
相良頼房は自ら申し出て、1582年2月引き続き人質として薩摩・出水に出向いたため、島津義久は喜び、島津家の通字のひとつである忠の文字を、若くして当主となった相良忠房に贈った形となっています。
相良忠房も、島津家の期待に応えるように、島津家久の肥前遠征に参戦し、肥後の制圧に貢献しました。
しかし、そんな兄・相良忠房は疱瘡に(ほうそう)を患い、1585年2月15日に死去。享年14歳。
島津義久は相良家の解体を謀りますが、重臣・深水長智の交渉により、弟・相良頼房(12歳)が家督を継ぐこととなり、末弟の藤千代(相良長誠)が代わりに人質として差し出されました。
ただし、半年ほどで出水から人吉に戻っています。
その後も相良家は島津家に忠節に従い、家臣の深水長智(深水宗方)、犬童頼安(犬童休矣)・犬童頼兄らが、まだ若い主君に代わって球磨の兵を率いて島津義弘に協力。
天正14年(1586年)1月には高森城の戦いにも参加しましたが、深水宗方の子・深水摂津介が討死しています。
その後、姶良勢は隈府城の守備に就くなど、島津家の肥後攻め、筑後攻め、筑前攻めにも貢献しました。
1587年、島津義久はほぼ九州を平定しますが、豊臣秀吉の九州攻めが始まります。
姶良勢としては豊後の萱迫城(かけさこじょう)にした犬童休矣と伊集院三河守は、阿蘇・坂梨城に退却。
豊後・切禿城にいた深水宗方と伊集院忠棟も葦北に撤退するなど、島津勢は総崩れとなり、姶良勢も人吉に戻りました。
豊臣秀長の大軍が、島津家の猛将・山田有信が守る高城を包囲すると、援軍として赴く島津義久・島津義弘の軍勢に、相良頼房は犬童休矣と共に出陣して加わります。
しかし、豊臣秀吉の本隊が八代城に入ったと聞いた重臣・深水宗方は、すでに島津家に勝機はなしとして、相良長誠を奉じて八代に赴き、豊臣秀吉にルン解すると所領安堵を願い出ました。豊臣秀吉も深水宗方の気持ちを察して所領安堵を許しています。
そのため、深水宗方はすぐに使者を日向に送って、相良頼房に報告。
相良頼房はこれを受けて、1587年4月17日に島津家が大損害を受けた根白坂の戦いの数時間前に陣払いしたため、被害は最小で済みました。
しかし、家臣の何人かはこれを潔しとせずに、そのまま島津義弘の家臣として迎えられたようです。
相良頼房は佐敷に入った豊臣秀吉の元にそのまま馳せ参じ、深水宗方と犬童休矣らと4月23日に拝謁。
その後は、豊臣秀吉に臣従し、球磨勢も豊臣側として薩摩への侵攻に加わりました。
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九州平定後、大平寺の秀吉陣所には、深水宗方が相良家を代表してて勤めており、連歌の達人であった深水宗方は秀吉の前で歌を詠むと、その外征の意をすでに知っていたかと喜ばれたとあります。
そして、大坂城に来て豊臣家の直臣になるようにと言われますが、さすがに深水宗方はこれを固辞しています。
しかし、この深水宗方への評価が、相良家が島津家から無事に独立を果たし存続するうえでは非常に有益となりました。
深水宗方とは
この深水宗方(ふかみ-ほうそう)と言う武将は、深水長智(ふかみ-ながとも)(1532年~1590年)と言う、深水休甫とも呼ばれます。
相良一族であり奉行職(執政)を務める家柄でした。
最初の主君・相良晴広が教養人だったことから、和歌や連歌にも長じ、手腕に優れた名臣として名高いのが深水宗方で交渉能力も長けていました。
1581年、相良義陽が戦死した際には、遺児の相良忠房を犬童頼安と擁立して補佐、相良頼貞が家督を奪わんと挙兵した際にも収拾に務めたのか上記でご紹介したとおりです。
また、島津義久の病気になった際には、願掛けの為に一万の発句をするなどし、島津家との関係も良好に保ちました。
そして、九州を平定した豊臣秀吉は、豊臣直轄領とした水俣の代官を深水宗方に任さています。
豊臣臣従後の相良家
さて、新たに肥後に入った佐々成政が統治に失敗して肥後国人一揆が起こります。
この時、豊臣秀吉は島津義弘と伊集院忠棟に一揆鎮圧に加勢するように命じましたが、佐々成政はこの話を信じず、乱に乗じて島津勢が自分を攻めるものと勘違いしました。
そして、相良頼房(14歳)に、島津義弘らの入国を阻むよう要請したため、相良家は佐敷で島津勢らを防戦しています。
もちろん、豊臣秀吉は激怒したので、深水宗方が慌てて大坂城に赴いて、陳謝して行き違いを説明しました。
そして、九州に戻るとすぐに島津家にも詫びて和解したため、肥後の国人衆が重く罰せられる中でもね、相良家は何とかお咎めなしとなっています。
佐々成政は切腹となり、熊本城には加藤清正が入っています。
しかし、そんな頼りになる功臣・深水宗方も天正18年(1590年)に死去しました。
朝鮮攻めにおいては、ことごとく九州の大名は渡航を命じられていますので、相良家も例外ではなく、天正20年(1592年)2月1日、相良頼房は青井阿蘇神社にて外征祈願を行っています。
そこで、深水頼蔵と犬童頼兄(犬童軍七)を同格として相良姓を与え、深水頼蔵を軍師に任命し、犬童頼兄を補佐と定めました。
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もともと、犬童頼兄(いんどう-よりもり)は、相良家の家老・深水長智より才気を認められており、後継者にと期待されていましたが、竹下監物ら深水一族から反対され、甥である深水頼蔵を養子に迎えました。
そして、家老・深水長智が相良頼房に進言して、深水頼蔵を軍師、犬童頼兄を補佐としたのです。
これに不快感を持っていたのが犬童頼兄であったため、両者は不仲であり、陣中で不和を起さないと誓書を交わさせれています。
しかし、結局は名護屋城に在陣していた際に両名は言い争いをし、深水頼蔵は球磨の山田に引き籠ってしまうと言う一幕もありましたが、深水一族の竹下監物が説得したので、復帰しました。
1592年、文禄の役で、相良頼房は760(800とも)を率いて渡航し、加藤清正の二番隊に属して戦いました。
下記は人吉・永国寺にある「千人塚石塔」(耳塚)で、朝鮮出兵の際に犠牲になった朝鮮人の霊を慰めるため相良頼房が建立したものだと伝わります。
この朝鮮遠征している間に、国許では太閤検地により領地を没収されていた竹下監物の深水一族は、このままでは犬童頼兄の計略で一族が滅ぼされると考え、600名が湯前城に立て籠もり、反旗を翻します。
関与を疑われた竹下監物は潔白を主張するも、文禄3年(1584年)8月15日、相良頼房は朝鮮から家臣を派遣して、竹下監物に切腹を命じます。
そして、竹下監物とその2子、郎党ら数名が切腹し事は収拾しますが、この騒動は長く相良藩の禍根となりました。
1596年、朝鮮からようやく帰国した相良勢でしたが、深水頼蔵は国元に戻った際に、深水一族から暗殺されるのを恐れて、途中で離脱し加藤清正の元に出奔します。
実父の深水織部も同じく出奔すると、犬童頼兄(犬童軍七)が深水織部の妻子を軟禁しました。
そのため、切腹していた竹下監物の旧臣ら数十名が、湯前から人吉に赴いて、深水織部の妻子の奪還を図り、再び騒動となります。
奪還は阻止されましたが、恨みから町家で殺傷事件が起こるなどしたため、深水頼蔵を追って深水一族からは出奔者が相次ぎました。
これを犬童頼兄は監視・捕縛するなどして、相良頼房の命をうけ73名を誅殺することとなります。
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この犬童頼兄の行為は、私闘を禁じた豊臣秀吉の惣無事令に明確な違反だとして、熊本にいた深水頼蔵は加藤清正を通じて豊臣政権に訴え出ます。
こうして、石田三成が奉行となり、深水頼蔵と犬童頼兄の2人を呼び寄せて吟味することになりました。
しかし、犬童頼兄は弁が立つ上に主君・相良頼房からの証文を所持していたのと、石田三成がそもそも加藤清正に反感を抱いていたため、深水頼蔵が不利になります。
のちに出された裁定は、深水頼蔵の捕縛命令であったため、山井五郎が派遣されましたが、深水頼蔵は逃亡。
慶長の役が始まると、深水頼蔵(相良左馬介頼蔵)は加藤清正に従い渡海しますが、蔚山の戦いにて没しました。
この犬童頼兄と 深水頼蔵ら深水一族の対立は、その後も人吉藩の藩内抗争を招いており、版籍奉還を迎える明治まで収まる事はありませんでした。
なお、相良頼房も朝鮮に渡り加藤清正の配下として参戦しています。
蔚山城の戦いなどで功を挙げ、豊臣秀吉から感状も受けました。
この時、相良頼房は戦利品として朝鮮人捕虜を数十名連れ帰りましたが、その中の陶工が開いた窯が上村焼窯であり、彼らが済んだのが唐人町(人吉市七日町)と言う事になります。
これらの功もあり、1599年1月、後陽成天皇より相良頼房は従五位下・左衛門佐に叙され、豊臣姓も下賜されました。
また、1599年6月、相良頼房(26歳)は秋月種実の娘を正室に迎えており、1600年12月13日に嫡男・相良頼寛が誕生しています。
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豊臣秀吉の死後、島津家の内紛にて伊集院忠棟が伏見で誅殺され、薩摩にて庄内の乱が起こると、徳川家康の命を受けて、相良頼房も鎮圧側として出陣しています。
また、相良藩でも、かつて兄・相良忠房が相続した際に、対抗した相良頼貞を擁していた上村長陸が、朝鮮の役のときに謀叛を企てたという疑いで、瑞祥寺門外にて殺害されています。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いとなると、相良家は初め石田三成に従いました。
相良頼房は犬童頼兄(相良清兵衛)と共に上京して西軍に加わり、伏見城の戦いでは家臣・神瀬九兵衛が先登の功を挙げています。
しかし、その一方で犬童頼兄は、徳川家の井伊直政と内通して謀議を進めていました。
西軍として大垣城の守備を任せれていた際に9月15日を迎えて、関ヶ原本戦で石田三成・大谷吉継ら西軍が壊滅したと聞くと、相良頼房は犬童頼兄の策を実行に移します。
秋月種長・高橋元種らと共に東軍に寝返り、西軍の熊谷直盛、垣見一直、木村由信・木村豊統の父子らを大垣城内で謀殺し、東軍に降伏しました。
9月23日には、最後まで大垣城を守っていた福原長堯も城を明け渡して投降しますが、その福原を謀殺して首を取ったのは、相良家の者という説もあります。
相良頼房と犬童頼兄は、やむなく西軍についていたと主張し、早くから井伊直政に恭順の意を示していた事もあり、徳川家康からは所領を安堵され、人吉藩2万2000石が成立しました。
しかし、犬童頼兄が次第に実権を独占し始めていたため、徳川家康から反感をかっています。
なお、相良頼房は人吉城の改築を本格的に開始しました。
人吉城とは
人吉城(ひとよしじょう)は、鎌倉時代に源頼朝に仕えた遠江国相良荘の相良長頼が、1205年に地頭として人吉荘に赴任して以来、長きにわたり在城することになった名城です。
相良長頼は最初、源頼朝には協力しなかったため、追放されていますが、のちに許されて復帰し、二俣川の戦いで手柄を立てたため、人吉荘を与えられました。
この時、平頼盛の家臣・矢瀬主馬佑が人吉城を構えていましたが、反抗したため相良長頼が鷹狩りに呼んで誅殺し、その後、人吉城に入ったと言う事になります。
別名を繊月城、三日月城、相良城とも言い、日本100名城にも選定されている平山城で、標高140m、比高40mです。
人吉城跡は国の史跡にも指定されています。
室町時代の文安5年(1448年)には下相良氏の相良長続が上相良氏を滅ぼして球磨を統一。
更に肥後国守護の菊池氏により八代と葦北の占有・保持を許されて、球磨・八代・葦北三郡の統一に成功し、相良義滋が現われると八代・古麓城を居所とし戦国大名化を果たしました。
1493年に制定された相良家法度「相良氏法度20か条」や「晴広式目21か条」は、相良晴広の時代に分国法として制定されたものです。
ただし、相良家が発案したものではなく、領主たちが起草したものとして有名です。
人吉藩では、幾つかの条項を除き、江戸時代まで用いられました。
家督継承問題が発生した大永6年(1526年)7月14日、日向真幸院の北原氏が突如として現れて、人吉城を取り囲んでいます。
これは、人吉城が他家から攻められた唯一の戦いとなりましたが、当時の相良義滋(相良長唯)は策を用いて北原氏を追い返しました。
「明日の朝、伊東家から援兵が来るのからその上で一戦交える」と場内から北原勢に呼びかけると、その夜、皆越貞当に命じて、沿道にも点々と篝火を残し、100名ほどの手勢も松明を手にして、援軍が駆けつけたように見せかけたと言います。
これにより、北原勢は狼狽して潰走したと言いますので、相良家は昔から策士の傾向があったようです。
なお、相良頼房(相良長毎)は1589年には、豊後より石工を集めて石垣設置を始める人吉城を改修開始した模様です。
その後、は相良頼房(相良長毎)は、1614年の大坂冬の陣には兵を出していませんが、大阪夏の陣には出陣しています。
しかし、島津家同様に、戦闘はすでに終わっており、戦いには加わっていません。
その後、1617年、相良頼房は嫡子・長寿丸を連れて駿府城を訪問すると徳川家康に拝謁し、江戸城でも徳川秀忠に会っています。
このとき長寿丸は相良頼尚と名を改め、自身も初代相良氏である先祖の名にちなみ相良長毎と改名しました。
1620年、椎葉山騒動でも功績があり、椎葉村一帯が天領となると、その管理と実質的な支配を相良藩が任されました。
1632年、相良頼房は大垣城で殺害した相手と石田三成の追善供養を、犬童頼兄に命じており、人吉にある菩提寺の願成寺には石田三成らの供養碑(下記写真の一番右が石田三成の墓)が設置されています。
寛永13年(1636年)6月13日に相良頼房(相良長毎)は死去しました。享年63。
家督は長男・姶良頼寛が継ぎ、中断したりしていた人吉城の工事は1639年の完成を見て、現在に残る近代城郭になりました。
下記は二の丸から見た本丸です。
下記はその本丸への登り口となります。
人吉城に天守はなく、本丸には天守の代わりとして2層の護摩堂があったそうです。
本丸はそんなに広くはなかったですが、2万石としてはまぁ、このくらいと言った感じです。
北側の石垣に人吉城の特徴でもある「武者返し」があります。
下記写真の石垣の上部に屋根みたいな石がありますが、これは西洋式の工法で、石垣の下からの延焼防止がその最大の目的ですので、江戸末期に改修された石垣となります。
なお、人吉城の南東にある背後には、旧人吉城とでもいうべき「原城」が隣にあると言って良いです。
この原城は、人吉城の3倍ほどの大きさがあり、原城も含めると2万石程度とは思えない、巨大な城郭にもなるので、大軍を持って籠城する事も可能な設計になっているのも素晴らしいです。
下記は人吉城の二の丸からの眺めで、下部に写っている平坦地三の丸となります。とても綺麗に整備されています。
1637年、天草四郎の島原の乱では、藩主・相良頼寛が参勤で江戸にいたため、相良頼兄の子・相良頼安(相良内蔵助)とその子・相良頼章(相良喜兵次)が、名代として出陣・指揮しています。
しかし、これだけでおさまらないのが、相良家で、ほんとオモシロイ大名家です。
犬童頼兄のその後
70歳を過ぎていた犬童頼兄(相良兵部少輔頼兄)は、人吉藩2万2千石のうち、半分近い8000石の筆頭家老となっており、人吉藩のすべてを執政として取り仕切っていました。
これに困った藩主・相良頼寛は、1640年に「頼兄は専横の家臣に過ぎない」と、徳川幕府の旗本・阿倍正之と渡辺宗綱(渡辺図書助宗綱)に相談します。
阿倍正之が大老・土井利勝に報告すると、犬童頼兄と子の相良頼安の親子を江戸に呼び寄せ、幕臣から訓戒させてはどうか?と、相良頼寛に打診します。
しかし、藩主・相良頼寛は清兵衛一派の報復を恐れたため、犬童(いんどう)親子を、私曲13ヶ条の罪を犯したとして長々と書状にし、江戸幕府に報告しました。
このため、江戸幕府が公儀として対応することになり、犬童頼兄は江戸城にて詮議を受けることになりました。
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当時73歳の犬童頼兄は江戸へと向かいましたが、箱根を越えると刀も取り上げられ、小田原藩仮預かりとなって失脚し、囚人同然の待遇になったと言います。
この出立は、藩内では極秘でしたが、犬童頼兄の養子・田代半兵衛頼昌(犬童半兵衛とも)が叛乱を起して、犬童頼兄の一族全員121人が討死・自害すると言う騒ぎ「人吉藩・お下の乱」に発展しました。
犬童頼兄の処分は津軽への流刑となりましたが、徳川家にも長年の功績があったことから、米300俵30人扶持を与えられ、従者6人(7人とも)と共に弘前城の西にある高屋村に屋敷を与えられましたので、実質的は強制隠居と言えるでしょう。(現在の青森県弘前市相良町)
しかし、火災によりのち鏡ヶ池の畔に移り住み、明暦元年(1655年)7月12日に津軽にて客死しました。享年88。
相良清兵衛屋敷
人吉にあった犬童頼兄の屋敷「相良清兵衛屋敷」跡は、現在「人吉城歴史館」が建っています。
その資料館の中で「地下室」が当初の形に復元され、上から覗き見ることができます。
ただし、館内は写真撮影が一切禁止と言う事で、お写真ではご紹介できません。
なお「地下室」は屋敷内にあった2階建ての「持仏堂」があった場所と確認されており、地下室に降りる石積みの階段と踊り場、長方形の井戸、黒い小石敷き、その下にスギ板が敷かれていた事が解明されています。
これとほぼ同じ構造の地下室が、嫡子・犬童頼安の屋敷にある蔵の位置からも発見されているとの事です。
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世界的にも、重臣の屋敷に井戸を持つ地下室があるのは例がないそうですが、地下室が作られた目的はいまだ解明されていないとしています。
私が拝見した印象から推測致しますと、まず建物の中、しかも地下に命の水を確保している事から、カギを掛けて厳重管理できますので、毒を入れられるのを防止する役割と、屋敷を急襲された際の緊急避難場所、隠れる場所としても、地下室を設けたのではないかと小生は感じました。
例えば、四国の松山城では、大名の屋敷ではありますが、大きな地下構造の井戸水場があります。
この松山城の設備としては、台所で使用する上水・下水と言う意味合いが強いと存じます。
犬童家の地下室にある井戸は、水の手の確保と言う意味合いが強いように感じられますので、例えば、ある程度の食料も備蓄していれば、この中で何週間も生き延びることが可能です。
敵対する藩士も多かった犬童頼兄ですので、それだけ警戒をしていたのかな?と言う気が致します。
ちなみに、屋敷は田代半兵衛(犬童半兵衛)が反乱を起こした際に、この屋敷「お下屋敷」に立て籠もって戦ったため、その時に焼失したとあります。
下記は「御下の乱供養碑」で、人吉歴史館から西側に行った白い塀の脇に建っています。
なお、人吉藩では、その後、何度もお家騒動を起こしているのですが、それでも、しぶとく、取り潰しを免れていると言う点は、非常に珍しく感じます。
明治に入ると、西南戦争の際に西郷隆盛の薩軍が、人吉城の三の丸に大砲を配備して、球磨川対岸に位置した官軍と戦いました。
その戦火によって、人吉城の建造物はほとんどが焼失しました。
武家蔵(武家屋敷)
人吉医療センターの南側道路向かいに「武家屋敷」が残されています。
この武家屋敷の門は、人吉城跡から移築した堀合門となっています。
奥にある御仮屋は江戸末期に移築されたものとの事で、西南戦争の際に、西郷隆盛が宿舎として使用されました。
しかし、訪問させて頂いた日は休館日で、敷地内には入れませんでしたので、門の写真だけで申し訳ありません。
武家蔵(武家屋敷)は、門の左脇に2台ほどの狭い駐車場がありました。
さて、人吉城跡へのアクセス・行き方ですが、JR人吉駅からだと徒歩20分ほどとなります。
人吉駅の観光案内所では、電動レンタサイクルの貸自転車もあります。
人吉城の見学観光時間ですが、麓から本丸までの往復でしたらざっと30分といったところです。
人吉城は建物こそ、まだ、そんなに復元はされていませんが、雰囲気も良く、適度に登りやすい平山城ですので、なんか久しぶりに城攻め(城訪問)を楽しめました。
また、相良氏に関しても、僅か2万石程度の小大名ながらも、戦国の世を生き抜き、明治維新まで670年も人吉を領し続けた相良氏はさすがに誇れるなと、なかなか楽しめた調べものとなりました。
今回は、駆け足で回りましたので、次回は是非、人吉温泉に宿泊してゆっくりと散策したいものです。
人吉城を見学するのにクルマを止める駐車場は、人吉城の南側に大きな駐車場もありますが、下記の地図ポイント地点にある5台ほどの駐車スペースの方が見学には便利です。
人吉城を見学される場合には、一番最初に人吉歴史館を見学して、簡単なマップと予備知識を得てから城を周ると良いです。
末筆ではありますが、2020年7月4日、集中豪雨により球磨川(くま-がわ)が上流から下流までの全域にて氾濫し、人吉の街中や肥薩線なども大きな被害となりました。
令和になってから、更に災害・感染病など、とても試練を与えられており、人吉の被害も心が痛みます。
被害を受けられた皆様に、心よりお見舞い申し上げます。
一日も早い復旧と、みなさまのご健康をお祈り申しあげます。
・八代の古麓城と麦島城~そして細川忠興が隠居した八代城と松井興長
・甲斐宗運と御船城~阿蘇氏を忠実に守り抜いた生涯不敗の軍師で名将
・菊池城と菊池武経や菊池義武~隈府城と隈部親永ら菊池一族の争い
・阿蘇惟豊と阿蘇惟将~阿蘇氏を繋いだ阿蘇神社の大宮司
・伊東義祐~日向から南九州の覇権を争うも伊東崩れで没落
・島津義久とは~耳川の戦いの詳細や富隈城と国分城も
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・佐々成政~織田家のエリート武将も、最後は悲劇な人生を送った
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