高橋紹運と立花直次~岩屋城の戦い・岩屋城の訪問記

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高橋紹運(たかはし-じょううん)は吉弘鑑理の次男で、1548年に豊前・筧城にて生まれた。
母は大友義鑑の娘か?(諸説あり)
父・吉弘鑑理は智勇に優れた武将で、大友義鑑の一門として活躍し、大友義鑑の子・大友義鎮(大友宗麟)と大友鑑理の2人から1字ずつ賜り、鎮理と称していた。

高橋紹運(高橋孫七郎)は、13歳のときとなる1561年、第四次門司城の戦いで初陣したと推測できる。


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1567年、筑前の守護を任されていた大友家臣・高橋鑑種が、毛利元就の調略により豊前・筑前・肥前ら国人と謀反を起こしたときには、父・吉弘鑑理や兄・吉弘鎮信と共に武功を挙げている。

なお、正室は斎藤鎮実の妹(もしくは娘)の宋雲院で、1567年に長男・高橋統虎(立花宗茂)、1572年に次男・高橋統増(立花直次)が生れている。
この斎藤鎮実の妹は婚約中に疱瘡を罹い、容貌が悪くなったため、斎藤鎮実は遠慮して破談を申し出たと言う。
しかし、高橋紹運は

私は彼女の容姿に惚れて婚約を決めたのではない、心の優しさなど内面に惹かれて婚約を決めたのだから、容姿が変わろうとも問題はない。

と、そのまま正妻として迎え、2男4女を儲けた。

1569年、立花城の戦いのあと、毛利勢が九州から撤退すると、後ろ盾を失った高橋鑑種が大友家に降伏する。
大友宗麟は高橋鑑種による高橋家の名跡を剥奪し、代わりに高橋紹運(22歳)に継ぐよう命じ、筑前・岩屋城と宝満城の城主となり、この時、高橋鎮種と名を改めた。

高橋鎮種(高橋紹運)は、立花城主となった立花道雪と共に筑前支配を担当し、鷲ヶ岳城主・大鶴鎮正、荒平城主・小田部紹叱、柑子岳城主・臼杵鎮続、木付鑑実らと、筑前、筑後、肥前、豊前の対抗勢力である秋月種実、筑紫広門、原田隆種、原田鑑尚、龍造寺隆信、宗像氏貞、麻生元重、杉重良、問註所鑑景、城井鎮房、長野助盛、千手宗元と戦を繰り返した。

1578年、耳川の戦いで大友宗麟が薩摩・島津義久に大敗を喫した際には、兄・吉弘鎮信、妻兄の斎藤鎮実、大友家重臣の角隈石宗、佐伯惟教、田北鎮周など多数の有力武将が討死。
肥前の龍造寺隆信や筑後の筑紫広門、筑前の秋月種実らの侵攻に対して立花道雪と奮闘し守った。
また、この年に剃髮して高橋紹運(31歳)と号している。

男子のいなかった立花道雪より再三に渡り、嫡男・高橋統虎を養子に出して欲しいとの要請があり、1581年、子の高橋統虎を立花道雪の娘・立花誾千代の婿養子とした。
これにより高橋家は次男・高橋統増が嫡子とされる。

1584年、沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討死すると、島津勢の圧迫が強まったが、大友義統からの出兵要請を受け高橋紹運と立花道雪は、高牟礼城将・椿原氏部を調略し、犬尾城主・川崎重高を撃破し、猫尾城を陥落させた。

1585年には、肥前・筑前・筑後・豊前の連合軍である龍造寺政家、龍造寺家晴、鍋島直茂、後藤家信、筑紫広門、波多親、草野鎮永、星野吉実、秋月種実、問註所鑑景、城井鎮房、長野種信など約30000を相手に、立花道雪と高橋紹運、朽網鑑康、志賀親守ら9800は、筒川の戦いや久留米の戦いにて善戦し敵軍を退けた。

1585年9月、立花道雪が陣中で病没するのを高橋紹運が見送ると、これを好機と見た筑紫広門が留守にしていた宝満城を奪取したため、高橋紹運ら大友勢は筑後遠征を中止して宝満城を奪還。
のちに筑紫広門と和睦すると、筑紫広門の娘・加袮(17歳)を次男・高橋統増(15歳)の正室に迎え、筑紫家の持ち城となっていた宝満城は両家の城という事になった。

岩屋城の戦い

九州制覇を目指す薩摩の島津義久は、島津忠長・伊集院忠棟を大将にした20000を筑前に派遣する。
1586年7月、岩屋城・宝満山城のある麓の太宰府に薩摩勢が陣を敷くと、高橋紹運は763名にて岩屋城に籠城。
立花家の家臣・吉田連正が約20にて援軍として駆けつけている。

なお、宝満城には、高橋紹運の妻と、次男・高橋統増や、岩屋城から避難した女・子供がを入れている。

1586年7月12日に、島津忠長は降伏勧告したが、高橋紹運(39歳)はこれを拒絶しては岩屋城の戦いとなった。

島津忠長は、高橋紹運の器量を惜しみ3回も降伏勧告を行ったが・・

主家が盛んなる時は忠誠を誓い、主家が衰えたときは裏切る。そのような輩が多いが私は大恩を忘れ鞍替えすることは出来ぬ。恩を忘れることは鳥獣以下である。

として断ったとされ、味方だけでなく敵からも賞賛を受けたと言う。

また、立花宗茂や黒田孝高(黒田官兵衛)からも、筑前・岩屋城では防御が弱かったため、撤退するようにと促されたが、いずれも使者を丁重にもてなして断っている。
※徹底抗戦には諸説あり。

このように高橋紹運は大友家を裏切ることなく、徹底して抗戦したため、戦いは約2週間に及び、最後には島津忠長が自ら指揮して総攻撃した。

衆寡敵せず、家臣らは次々に倒れ、ついに高橋紹運が指揮する詰の丸だけになったところで、1586年7月27日高橋紹運は高櫓に登って壮絶な割腹をして果てたと言う。享年39。
援軍の吉田連正も討死するなど、高橋勢で生き残った者はいなかったとされる。

島津忠長と諸将は、般若台にて高橋紹運の首実検を行った際

我々は類まれなる名将を殺してしまったものだ。紹運と友であったならば最良の友となれたろうに。

と床几から地面に正座して、涙を流したと伝わっている。

なお、大軍であった島津勢もこの岩屋城の戦いで、死傷者3000とも言う疲弊となった為、態勢を立て直すのに時間を要し、立花宗茂が籠もる立花山城への攻撃も鈍る。
そうこうしている間に、豊臣勢20万が九州に上陸したため、島津勢は薩摩への撤退を余儀なくされた。

立花直次

宝満山城を守っていた次男・高橋統増(高橋直次、立花直次)は、家臣らの説得もあり、立花城への退去の許しを得て島津勢の降伏勧告を受けた。
しかし、島津勢は高橋統増(高橋直次)と正室・筑紫広門の娘である加袮(養福院)が、8月6日に城を出た所を捕縛。
天拝山の麓にある武蔵村・帆足弾正の屋敷に軟禁した。

1586年9月から九州に入った豊臣秀吉の九州攻め(九州征伐)によって立花直次と加袮は解放される。

これまでの苦労は大変だったであろう。父紹運殿が秀吉の為、島津の大軍を引き受けて比類の無い戦をし討死された事は、忠功、感賞に堪えない。此の度、筑後国・三池郡を与えるにあたり、今後とも統虎殿(立花宗茂)と申し合わせ忠勤に励んで貰いたい。

として、豊臣秀吉は父の軍功と兄の活躍を賞賛し、1587年、高橋統増(高橋直次、立花直次)を筑後・三池郡18000石の江浦城主に取り立てた。

そして、三池に入った高橋統増(高橋直次、立花直次)は、戦死した父・高橋紹運と岩屋城で討死した家臣の霊を慰める為、紹運寺を建立する。

また、柳生宗矩の門弟となり「新陰治源流」を開祖した他、兄・立花宗茂の与力として活躍する。
父と共に死ななかった事を後悔していたようで、兄を深く尊敬し、戦場では率先して戦った言う。

1600年、関ヶ原の戦いでは兄・立花宗茂と共に石田三成の西軍に与して、伏見城の戦い、大津城の戦いなどに出陣した。
そのため、立花直次は改易・領地没収となり、最初、八代にて寓居したあと、京都の北山に移り住んむなど浪人して、宗卜と号した。
その後、兄・立花宗茂と同様に徳川秀忠に召し抱えられ、1613年1月28日には徳川家康との拝謁を許されている。

1614年10月9日に常陸・筑波郡内の柿岡に5000石を与えられて徳川旗本となり、本多正信の勧めを受けて家号を高橋より「立花」に改めた。
1614年11月からの大坂の冬の陣でも出陣すると、徳川秀忠の危機を救う戦功を挙げている。

1617年7月19日に江戸・下谷邸にて死去すると、下谷・広徳寺に葬られた。享年46。
法名は大通院殿玉峯道白大居士。
子の立花種次は、1621年に加増されて筑後・三池郡に移封され三池藩10000石の大名になっている。
また、4男・立花忠茂が兄・立花宗茂の養子になっており、柳河藩(柳川藩)の第2代藩主になった。

三池藩主・立花種周の孫が、一宮藩での最後の藩主・加納久宜で、その末娘・加納夏子は、麻生グループ創業者の炭鉱王・麻生太吉の子・麻生太郎(先代)の妻になっている。
二人の間の長男・麻生太賀吉と、吉田和子(吉田茂の3娘)の間に生まれた息子が、内閣総理大臣も務めた麻生太郎と言う事になる。

岩屋城の訪問記

大宰府天満宮近くから登って行く「県民の森」に通じる山の中の道路沿いに岩屋城と高橋紹運の墓があります。
まずは駐車場情報ですが、駐車場はありません。
ただし、道路脇にクルマを止めるスペースがありますので、自己責任にてお願い申し上げます。
22番カーブに1台ほど、23番カーブの路側帯に2台ほど駐車可能です。
※他のクルマの迷惑になりますので、本線上には絶対に駐車しないでください。
下記の地図ポイント地点は、23番カーブの駐車スペースです。

上記の地図でわかるとおり、道路から南(谷側)に降りて行く「遊歩道」が高橋紹運の墓へ通じており、歩いて4分くらいでしょうか?
逆に山側には階段を登って、堀切に出たところをクイッと右に折れると岩屋城となります。
両方とも道路からそんなに遠くありません。
ただし、夏場は「虫除け」などあった方が無難です。

まずは道路から山側に階段が伸びている岩屋城に向います。

岩屋城への入口

階段を登り切ったところには堀切があるのですが、最初、堀切だとはわからなく、下記の写真は帰り道でその堀切を撮影したものです。

岩屋城の堀切

階段が終わったところを右折しますと、その先がすぐ岩屋城跡(甲の丸)です。

岩屋城へ

岩屋城・甲の丸には、家臣の子孫によって建立された「嗚呼壮烈岩屋城址」の碑(このページトップの写真)があります。
下記はその甲の丸からの展望で、大宰府天満宮方面です。

岩屋城からの展望

雨上がりの天気のため、あまり良い景観になっておらず、お詫び申し上げます。
下記は水城方面です。

岩屋城からの展望

下記は二日市方向です。

岩屋城の甲の丸から二日市方面

足元が悪かったので、これにて切り上げましたが、もう少し周ると遺構があるようです。
クルマで道路脇まで行ければ、小学生でも5分で登れるところで、展望も素晴らしいですので、初心者向きの山城です。

岩屋城

岩屋城下には石が積み重なって築かれた塚があるそうなのですが、これは島津勢に金で雇われ、水の手に導いた老婆が、落城後、高橋紹運を慕う領民に責められて生き埋めにされたと伝わるそうです。

高橋紹運の墓

さて、高橋紹運の墓(胴塚)は道路から谷側へと少し降りたところにあります。
恐らくは墓を守っている方が手作りなさった階段など、きちんと整備が行き届いていますので、歩きやすいです。

高橋紹運の墓(胴塚)

高橋紹運の墓(胴塚)もきちんと手入れがされています。
高橋紹運の墓(胴塚)と岩屋城・甲の丸の見学所要時間は、両方で約20分といったところです。

高橋紹運の墓(胴塚)

もう1つの高橋紹運の墓ですが、これは岩屋城からはだいぶ離れた二日市の街中にあります。
島津勢が首実検した麓の般若台にある高橋紹運の首塚となります。

高橋紹運の首塚

高橋紹運の首塚がある場所は下記の地図ポイント地点となりますが、地図で見ると平坦な場所に感じます。
しかし、実際には「坂の上」にあり、クルマでも入りたくない急坂です。

近くには大和朝廷が朝鮮からの侵攻に備えて築城したと日本書紀にも記載されている、古代山城(朝鮮式山城)の筑前・大野城もありますので、時間が許せばセットでどうぞ。

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