櫛橋左京進とは
櫛橋左京進(櫛橋伊則、櫛橋政伊)は、櫛橋伊定(くしはしこれさだ、櫛橋左京進、櫛橋左京亮伊定、櫛橋豊後守伊定)は、志方城主・櫛橋左京亮(櫛橋伊定)の子。
櫛橋家は藤原氏の末裔で、代々赤松家の家臣だったが、有力勢力となり、1492年に志方城を築いた。
櫛橋左京進(櫛橋伊則)の母や生年に関しては、不明。
なお、櫛橋家では、代々、左京亮や左京進を名乗っている為、小生が参考にした資料自体が混同して間違っている可能性もある為、ご了承のうえご覧頂きたい。
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櫛橋左京進(櫛橋伊則)の正室は小寺政職の妹とされるので、小寺家からの信頼が厚かった事もわかるが、NHKの大河ドラマ「官兵衛」のように、小寺政職の家臣と言うよりは、小寺家と同じように独立した小勢力だが、ほとんど小寺家に臣従していたと考えられる。
その為、周辺の勢力と婚姻同盟も積極的に講じた。
櫛橋伊定の長女(力?)は、武勇ある上月城主・上月景貞の正室になっている。
1542年に、父・櫛橋左京亮(櫛橋伊定)が死去すると、櫛橋左京進 (櫛橋伊則)が家督を継いだようだ。
1553年、櫛橋左京進 (櫛橋伊則)が27歳の時、のち黒田官兵衛の妻となる、櫛橋光姫が誕生。
櫛橋左京進 (櫛橋伊則)と櫛橋光姫は、ずいぶんと歳が離れているのを考慮すると、櫛橋光姫は後妻や側室の子であるとも?考えられる。
また、光姫の妹が、黒田家家臣の井上九郎右衛門(井上之房、井上弥太郎)に嫁いでいる。
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1562年、黒田官兵衛が16歳で小寺政職の近習になると、1566年頃、櫛橋伊定は、黒田官兵衛を早くも有能な武将でと見抜いたようで、赤合子(あかごうす)の兜と胴丸具足(写真)を黒田官兵衛に贈っている。(黒田官兵衛は、死の間際に家臣である栗山善助(栗山利安)に贈り、栗山利安の子である栗山利章が盛岡へ流された関係で、現在、盛岡市中央公民館にて保存されている。)
1567年、黒田孝高(黒田官兵衛)が、黒田家の家督を継ぎ、小寺家の家老になると、小寺政職の姪にあたる櫛橋光は、小寺政職の養女となり、黒田孝高(黒田官兵衛)の正室として結婚し、姫路城に入った。
黒田官兵衛22歳、光姫は15歳であったとされ才色兼備の大柄な女性であったと伝えられている。
婚姻の際、櫛橋家は、甲冑を黒田孝高に贈ったという話が、櫛橋家に伝わっている。
光姫は、1568年12月3日には、黒田長政(松寿丸)を産み、1582年には、黒田熊之助を産んだ。
1578年3月、別所長治が織田信長より離反すると、櫛橋左京進 (櫛橋伊則)は別所家に属して、羽柴秀吉勢に抵抗する為、志方城に籠城。
7月に織田信雄勢7500が志方城を包囲。対する志方城は1000程で、何度か城門を開いて討って出たが被害も大きく、城兵の過半数は赤痢のために倒れる状況になった。
別所長治も羽柴秀吉勢に三木城を包囲され、志方城に援軍を送ることが出来ない。
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黒田官兵衛は、志方城攻めには参加しておらず、妻の実家に刃を向けずに済んだが、事前に羽柴秀吉(豊臣秀吉)を通じて、織田信長に櫛橋一族の命だけは救えないかと奔走したようである。
櫛橋伊則は約20日程、志方城で籠城するも、8月に織田信忠30000により神吉城2000が攻略・落城し、城主・神吉頼定が命を落とすと、櫛橋伊則は織田信長に人質を出し、自分の命と引きかえに城兵の助命を願って羽柴秀吉に降伏し、自刃したとも。
黒田官兵衛の計らいで降伏が認められ、櫛橋伊則の命は許されたと言う説もある。(同じく抵抗していた神吉城・神吉氏は降伏が許されず、全滅している。)
また、実際に志方城では戦いは無く、櫛橋伊則が無血降伏したとする説もあり、詳しくはわかっていない。
櫛橋家の家臣らは播磨北部へと逃れ、多くの者が武士を辞めて帰農。
残った櫛橋氏は、黒田官兵衛(黒田孝高)の家臣に入ることを織田信長に許されて、黒田家の家臣として存続している。
以上、櫛橋左京進(櫛橋伊則)に関しては資料が乏しく、不確定要素も多く、間違った内容がある事も考えられる。
詳しくはわからなかったが、判明した範囲でまとめてみた。
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