末次元康とは
末次元康(すえつぐ もとやす)は、戦国時代の1560年(永禄3年)に中国地方の大名、毛利元就の八男として生まれました。
母は備後国三次郡の比叡尾山城を本拠とした三吉到高の娘です。
現在に伝わっている幼名は少輔七郎。出雲国・末次庄2400貫と末次城を父から与えられて名字を末次とし、元服後は末次元康と名乗ります。
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末次元康が生まれた当時、毛利氏の当主は末次元康と37歳離れた長兄・毛利隆元が継いでいましたが、隠居した毛利元就がなおも実権を掌握していました。
父の命令の元、毛利隆元、吉川元春、小早川隆景、穂井田元清などの年長の兄弟たちが中心となって、大内氏を九州へ追い出し、尼子氏との戦いも尼子晴久の急死によって優位に進めている頃でした。
相次ぐ当主の死去
ところが、1563年(永禄6年)には長兄・毛利隆元が死去。
その後は毛利元就が引き続き全体を統制していき、尼子氏を降伏させて、中国地方の名手となります。
しかしその毛利元就も1571年(元亀2年)に逝去し、家督は毛利隆元の子・毛利輝元に譲られます。
ここで毛利氏は、吉川元春、小早川隆景が幼年の毛利輝元を支える両川体制へと移行していきます。
末次元康の初陣は1578年(天正6年)、因幡国の宮石城攻めでした。
兄の吉川元春とともに出陣し、功を挙げたと言われています。
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また1585年(天正13年)には、南条直秀に奪われた伯耆国・河原山城を再奪還する活躍を見せました。
さらに同年に亡くなった同母兄・椙杜元秋(毛利元秋)に変わって椙杜氏の家督を継ぎ、月山富田城主に任じられました。
またこの年、毛利氏は織田信長亡き後、織田政権の継承者となり、畿内に強大な政権を築きつつあった羽柴秀吉と講和しています。
そして1591年(天正19年)、毛利輝元は、羽柴秀吉改め豊臣秀吉から月山富田城を同族の吉川広家(当時は吉川経言)に与えるよう命じられ、備後国の神辺城へ移封されています。
朝鮮出兵での活躍
翌1592年(文禄元年)から始まった文禄・慶長の役では、毛利輝元の代わりに朝鮮へ渡渡っています。
末次元康は各地を転戦、1593年(文禄2年)には碧蹄館で行なわれた戦いでは、宇喜田秀家を総大将、兄・小早川隆景を先鋒大将として、立花宗茂、高橋直次の兄弟、毛利秀包、吉川広家、筑紫広門などともに、平壌を奪還し勢いに乗る李如松提督が率いる明軍を迎撃しました。
この戦いで末次元康軍は1000人以上の敵兵を退ける活躍を見せ、日本軍の勝利に大いに貢献、豊臣秀吉から感状も贈られています。
さらに、帰国後の1595年(文禄4年)には従五位下・大蔵大輔に任じられ、豊臣姓も与えられています。
豊臣秀吉が死去した後、次第に徳川家康と石田三成らが対立の色を強めると、毛利家中は徳川か石田かどちらの味方をするべきか議論紛糾しました。
この当時すでに吉川・小早川両川は無く、数多くいた毛利元就の有能な子供たちの中でも、年長となっていた末次元康は、一族の重鎮として、家中の意見収集を図っています。
しかし石田三成襲撃事件や徳川家康から毛利家中の領地の分配に口を出されたことなどから、毛利家中が反徳川色を強くしていくと、1600年(慶長5年)7月に毛利輝元は石田三成の誘いに乗り、西軍の総大将として大阪城に入城することになります。
末次元康は毛利輝元の命を受けて、四国の東軍方であった加藤嘉明、藤堂高虎の領地にいた小早川隆景の旧臣を蜂起させるはたらきを見せました。
そして末次元康は、関ヶ原の戦いの前哨戦として行なわれた京都・伏見城の戦いに参戦します。
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その後、西軍として大谷吉継とともに行動していた京極高次が突如寝返って、籠城した大津城を攻める際は、末次元康が総大将となり、立花宗茂、小早川秀包、筑紫広門といった九州勢とともに大津城を囲み、攻め立てました。
しかし、大津城を中々落とすことはできず、結局京極高次は、9月15日に大阪城からの使者の説得によって降伏します。
そしてこの9月15日は関が原の合戦当日であったので、毛利元康ら15000の西軍は関ヶ原本戦に参戦すること適わず、大阪城へ退却することになってしまいました。
大阪城に戻った毛利元康は、甥で主君の毛利輝元に東軍を大阪城に引き寄せ、徹底抗戦するよう進言しますが、毛利輝元はこれを退け、広島に退却してしまいます。
関が原の合戦後、毛利氏は徳川家康から大幅な減封を言い渡され、末次元康の領地も長門国厚狭郡に7700石の所領を得ることになりました。
しかし末次元康は、1601年(慶長6年)正月、大坂で病死のため死去しています。42歳。
墓所は長門国厚狭の洞玄寺と大坂与力町の天徳寺にあり、戒名は石心玄也とされています。家督は嫡男の毛利元宣が継ぎ、厚狭毛利氏として幕末まで一門衆として継承されました。
まとめ
ところで、末次元康の名は、今も広島市内に残されているんです。
広島市内に流れる元安川にかかる元康橋(元安橋)は、橋を架ける工事を指揮したのが末次元康であった説、もしくは末次元康の屋敷に続く通りに架けられたとする説などから元康の名がつけられたと伝えられています。
そして橋の名前から川の名前もつけられたそうです。また一気に現代の話になりますが、元安橋は広島原爆の爆心地から至近距離にあったにもかかわらず、落橋せず、戦後も長く利用されていました。
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末次元康は、稀代の名将・毛利元就の晩年に生を受け、有能な兄たちとともに甥である当主を支え続けました。
織田、豊臣、徳川と時の権力者が目まぐるしく変遷する中、歴史上で名の知れている父や兄弟の影に隠れがちですが、父や兄が築いた大身代を守る為、奔走した人生だったのではないかと思われます。
(寄稿)kazuharu
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