紫式部とは
紫式部(むらさきしきぶ)は、平安時代の970年~978年頃に平安京にて生まれた女性で、貴族・藤原為時の娘。
できる限りわかりやすく、紫式部を解説してみる。
紫式部の本名(実名・本名)は不明。
2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」での作中名(創作上の名前)は「まひろ」としており、俳優(女優)の吉高由里子さんが演じられる。
<注釈> 女性の名前が不明なことが多いのは、人の妻となった女性を他の者が名前で呼ぶのが失礼な時代が戦国時代頃まで続いたため。~子と「子」として名前が伝わっている女性は官位をもらう際に朝廷に届け出た名前が文献に掲載されていると言う事になる。例えば北条政子がいるが「政子」と言う名は官位をもらう際に登録した名前とも言える。
紫式部の場合には「式部」は父・藤原為時の官職名(式部丞)に由来。
「紫」は源氏物語のヒロイン「紫の上」にちなんだ名称で、要するに平安時代の読者が、作者とされるこの女性のことを「紫式部」と言っていたということ。
近年の研究では、藤原香子(かおるこ) が本名ではないか?と言う新説もある。
また、幼名や通称は「もも」だったとする説もあるようだ。
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父・藤原為時(ふじわら の ためとき)は刑部大輔や周防守や豊前守を歴任した藤原雅正の3男。
紫式部の母は不明だが、藤原為信の娘とも考えられる。
しかし、紫式部が3歳~7歳の頃に母を亡くしたようだ。
父は文学に秀でた一流の文人だったようで、977年、東宮・師貞親王の御読書始において副侍読を務めている。
そのため、紫式部は子供の頃から歌書や物語類に触れ、女性でありながら漢籍にも優れた素質を有したと考えられる。
984年に花山天皇が即位すると藤原為時の兄・藤原為頼が出世し、986年には従四位下・摂津守となった。
それに乗じて、父・藤原為時も式部丞・六位蔵人に任じらた。
式部省(しきぶしょう)と言うのは、現在で言う文部省のことで、六位蔵人(ろくいのくろうど)は天皇の側近も務め、毎日出仕して働く下級役人(定員4名)。
しかし、986年、藤原兼家の陰謀にて花山天皇が退位すると父・藤原為時は官職を失っている。
位は維持しているが、次の就職待ち状態(散位)が約10年程度あったようなので、一転して貧しい暮らしとなった。
<注釈> それぞれの行政機関の役職には定員があるため、貴族でも全員が出仕できるとは限らず、失職すると次の勤務を与えられるまで「散位」(さんい)に編入される者もいた。
父の姉妹(名前不明)は、貴族武将・平維将の妻にもなっている。
<注釈> この平維将は桓武平氏国香流である家系。平国香 → 平貞盛 → 平維将 → 平維時 → 平直方と続いた。鎌倉幕府の執権・北条氏も平直方を始祖としている。
996年、父・藤原為時は時の帝(みかど)である一条天皇に申文(もうしぶみ)を送り、藤原道長の推薦もあり官職を得て従五位下・越前守に叙任。
そして越前国に赴任した。
当初、996年1月25日の除目で、父・藤原為時は淡路守に決まっていた。
しかし、1月28日に右大臣・藤原道長が一条天皇に進言し、越前守に任ぜられたばかりの源国盛から藤原為時に変更したとされる。
このとき、20歳前後?の紫式部も越前に同行したとされるが、北国の深い雪に驚いたようで京に戻った。
なお、親戚の藤原宣孝が越前について行った紫式部に何通も手紙を出していたと言う。
そして、998年頃、紫式部は従兄妹でもある山城守・藤原宣孝(権中納言・藤原為輔の子)と結婚。(藤原宣孝は父の上司だったこともある)
<注釈> 30歳目前とだいぶ歳をとってからの結婚のため、紫式部は再婚の可能性も指摘されている。
また、夫・藤原宣孝も4回目くらいの結婚とも推測でき、18歳~20歳前後離れていた模様。
なお、再婚だった場合、紫式部が最初に結婚したのは、996年頃?没の紀時文(紀貫之の子)の可能性が指摘されている。
歌人で仮名もできた紀貫之は、紫式部の家にもよく出入りしていたとされる。
尊卑分脈では、源氏物語の作者・紫式部は藤原道長の妾というような記述がある。
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京都市上京区の廬山寺(ろざんじ)あたりに住まいがあった模様。
999年、紫式部は娘・藤原賢子(大弐三位)を出産した。
しかし、結婚しても紫式部のキツイ性格は変わらなかったようで、家に寄り付かない藤原宣孝を責めるような手紙が残っている。
1001年4月15日、結婚してからわずか2年後、夫・藤原宣孝が病気で死去。
そのため、紫式部は娘を育てながら「源氏物語」として知られる長編小説を書きはじめたとされる。
なお、藤原寧子(藤原道綱の母)が残した「蜻蛉日記」が、紫式部の源氏物語に大きく影響を与えたと考えられる。
当時の「紙」は大変な高級品であったため一気に書き上げたと言う事ではなく、最初の頃は、紙の提供者がいればその都度、途中まで執筆しては読書や友との交流などを行い、読みまわしていたようだ。
その才能を聞きつけたのか、時の権力者である藤原道長の目に留まり、一条天皇の中宮・藤原彰子(藤原道長の長女)の女房として仕えた。
<注釈> 中宮(ちゅうぐう)と言うのは皇后のことで、すなわち天皇の妻の呼称のひとつ。
一条天皇は物語を好んでいたようで、紫式部の源氏物語がある中宮・藤原彰子の元に通う頻度が多くなり、子が生まれるのを期待した藤原道長の策と推測できる。、
紫式部の女房名は「藤式部」(とうのしきぶ)。
中宮彰子のもとに出仕した紫式部だが「私は『一』という字の横棒すら引いておりません」と述べている。
要するに漢文の教養を隠すため、「一」の漢字すらも書けないふりをしていたようだ。
自身が才女であることをなんとか隠そうとするなかで、紫式部の心を強く揺さぶったのは清少納言の「枕草子」であった。
清少納言へのライバル心を燃やした紫式部は、藤原道長より紙の提供を受け、源氏物語の執筆を続けたようだ。
藤原彰子の女房としては、歌人の和泉式部、赤染衛門、出羽弁もいる。
また、紫式部の娘で歌人になった越後弁(藤原賢子、大弐三位)ものちに藤原彰子の女房として出仕している。
紫式部の没年にも諸説あり、1014年頃に没したのが有力か?
子供だった頃からの歌詠を120首前後を収めた「紫式部集」は晩年に自ら編んだものと考えられる。
京都市北区紫野西御所田町(堀川北大路下ル西側)に、紫式部の墓と伝わるものがある。
藤原賢子
紫式部の娘・藤原賢子は、1017年(18歳ごろ)に母の後を継いで、一条院の女院彰子(上東門院)に女房として出仕した。
そして、関白・藤原道兼の次男・藤原兼隆と結婚。
1025年、親仁親王(後冷泉天皇)が誕生すると乳母を務めている。
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その後、東宮権大進・高階成章と再婚。
1054年、後冷泉天皇が即位すると、女性でありながら従三位へと出世した。(大弐三位)
藤原賢子は藤三位(とうのさんみ)、越後弁(えちごのべん)、弁乳母(べんのめのと)とも呼ばれている。
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