富田一白 豊臣政権にて外交手腕を発揮した奉行

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富田一白

富田一白とは

富田一白と言う戦国大名をご存知でしょうか?
恥ずかしながら小生は存じ上げませんでしたが、ちょっと調べてみました。

富田一白(とみた-いっぱく)の富田家は、出雲守護・京極氏の家臣でした。
ただし、京極氏とは同族でして、宇多源氏・佐々木氏の庶流と言う事になります。
富田氏が居城としたのは、月山富田城です。
しかし、尼子経久に富田城を追われて没落すると、京極氏と同じく別領があった近江に逃れたと考えられています。

その近江で生まれた富田一白は、とみた-かずのぶとも呼ばれますが、織田信長の直属として仕えました。
1573年のの長島一向一揆、千種の戦いにて17箇所に傷を負う奮戦をしており、武勇が轟きます。


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1582年、明智光秀による本能寺の変にて織田信長が横死すると、そのあとは羽柴秀吉に従い、側近として主に外交を担当しました。
※1573年のときに、羽柴秀吉に仕官したともされます。

1584年、小牧・長久手の戦いでは、伊勢・神戸城(または伊勢・木造城)の守備を任されています。
蟹江城の戦いで敗れて逃げてきた滝川一益を、その時には怪しんで入城を拒み追い返しもしました。

合戦のあとには羽柴秀吉の外交担当として、11月、桑名城を訪れると織田信雄との和平交渉にて「本使」を務めています。
この功績にて名馬・星崎を授かったとされます。

続いて徳川家康との交渉では、織田信雄の重臣だった滝川雄利を連れて浜松城を訪問しています。
このとく、徳川家康の次男・於義丸(結城秀康)を、羽柴秀吉の養子として迎えることに成功し、従五位下・左近将監に叙任されています。

このように結果が求められる交渉において、富田一白は確実に成果をあげていきました。
正室は、黒田久綱の娘とあります。
この黒田久綱は、近江出身ですが、この頃徳川家の家臣になっていたと考えられ、黒田久綱のもうひとりの娘は、近藤康用の妻にもなっています。

1586年5月、羽柴秀吉の妹・朝日姫と徳川家康との縁組を成立させると、浅野長政と共に浜松城への輿入れにも同行しています。
徳川家の榊原康政と御規式の奉行も務め、徳川家康より杯を与えられました。
帰国すると、羽柴秀吉からは鯖尾の兜・具足一式を褒美として授かり、その後、1587年、には九州攻めにも参陣しています。

1588年からは、嫡男・富田信高も関白秀吉に仕えました。

1590年、小田原攻めのきっかけとなった名胡桃城の支配権における北条氏政北条氏直親子への問責と上洛催促の使者も、津田信勝と共に務めました。
戦後は取次役となり、困難を極めた伊達政宗との奥州仕置に関する交渉にもあたっています。
そのあと、近江・美濃にて1万65石を加増されて、合計2万155石の大名となっており、豊臣姓も下賜されました。
津田宗及や豊臣秀吉主催の茶会にも、たびたび招かれており、茶道にも造詣が深いです。

1591年には、美濃国池田郡内に8010石の加増を受け、続けて近江国蒲生郡内に9107石、野洲郡三上村でも加増を受けています。

1592年、朝鮮攻めでは前備衆の筆頭として650を率いて肥前・名護屋城に入りました。
そして、金森長近・金森可重と共に、1300名を率いて朝鮮に渡っています。

1594年には、伏見城の普請を分担しました。

1595年、2万石の加増を受けますが、これは嫡男・富田信高に分知しています。
また、伊勢国安芸郡白子村には2000石の加増と、結構、古文書が残っていると言う印象を受けます。

豊臣秀次の切腹事件では、浅野長政が謹慎を命じられますが、この時、五奉行の代行も富田一白が行いました。
また、事件への関与について尋問するため、施薬院全宗・石田三成と共に伊達政宗から話を聞いています。
それら功績により、織田信包の旧領6万石として伊勢・安濃津城に入りました。
安濃津城は現在の「津城」となります。

安濃津城

この頃、富田一白は、老朽であったようで豊臣秀吉の御伽衆となっており、慶長3年(1598年)の豊臣秀吉が死去した際には遺物金30枚を受け取っています。

1599年、富田一白は隠居すると水西と号しました。
1599年10月に死去。
墓所は京都南禅寺の瑞雲庵となります。

富田一白が所持していたと言う刀剣「富田江」は現在「国宝」となっています。


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跡は嫡男・富田信高が継ぎました。
富田信高は石田三成を嫌っていたようで、関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方し、300を率いて榊原康政の軍勢に属しました。

そして、西軍は安濃津城を攻撃し、安濃津城の戦いとなります。
のち、宇和島城へ移封となり宇和島藩が成立しました。

また、富田一白の5男は、佐野房綱の養嗣子となって佐野信吉と称し、佐野城に入って下野・佐野藩主になっています。

以上ですが、富田一白は豊臣政権において、かなり重要な役割を担っていました。
しかし、その名はあまり知られていませんが、このように優秀な武将がいたからこそ、政権運営もできたわけです。

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