実は悲劇の女性だと分かる「茶々」~淀殿

淀殿をご紹介する記事では、できる限り中立的な立場にて記載したつもりですが、父・浅井長政や、母・お市の方の仇でもある豊臣秀吉の側室になって、豊臣秀頼を産むと権勢を誇るも、大阪の陣では戦い方にまで口出しして徳川家康に敗れ、豊臣家を滅亡に追い込んだ女性と言う印象が強いです。

でも、実際の「淀殿」は歴史に翻弄された戦国時代の女性としては、その代表格とも言える、とてもかわいそうな「悲運の女性」なのです。

この章では、そんな苦悩の連続であった淀殿をご紹介したいと存じます。

淀殿の事を「淀君」と呼ぶことがあります。
これは「軽蔑」した呼び方でして「淀君は悪女」と言う固定観念を日本人に生じさせたと思います。
どうしても、歴史と言うものは勝利した側(徳川家康)を「正義の味方」として描きますので、最近の調査では大阪の陣のきっかけも、淀殿が作ったのではないと判明しているようです。

ただし、茶々(淀殿)と言う女性は、下級武士の出身などではなく、当然、生まれながらのお嬢様でする
父・浅井長政や母・お市の方を「戦」にて失いましたが、周囲からはかわいそうだと甘やかされた「お嬢様育ち」であると容易に推測でき、一般的には「感情が激しい性格」であったと言われています。
とは言え、これは茶々(淀殿)である本人が悪い訳ではありません。
悲運なことながら、戦国時代に大名家の娘として生まれたゆえの宿命と言えるのではないでしょうか?
もちろん、気丈に振舞ったのには、浅井長政の娘であり、織田信長の妹の娘であると言う、誇りもあったのだと感じます。

浅井三姉妹の銅像

北政所前田利家の正室・まつ、と言った、夫の出世を支えた女性とは出自が異なり、まさに別格の「お嬢様」だったのですね。

これほどの武家の娘として生まれながら、2度の父の自刃、そして母の死と、幼い頃から深い悲しい経験が積み重なっています。
そして、妹のお初お江(小督)の母代りと言う立場にもなり、まさに子供のうちから長姉として、姉妹の命をも左右する判断を求められ、早くから波乱万丈であったと言えると存じます。


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妹たちが政略結婚などに使われる中、自らは仇とも言える豊臣秀吉の側室に上がりますが、残念ながらこの時の真意は、私には分かりかねます。
と言うより、本人以外にはその時の気持ちはわからないでしょう。
いずれにせよ、重大な決断をしたことには間違いなく、幸せをつかみかけたかにも見えますが、23歳の時に最初に生んだ子・鶴松が3歳で夭折すると言う、更なる不幸に見舞われています。
まさに悲しい出来事の連続で、うれしい事の方が少ないとも言える人生ですよね。

ちなみに、淀殿のヒステリーについては、豊臣秀吉がキリスト教を禁止してから、外国からの輸入されなくなった事による、ヘビースモーカー淀殿の煙草が吸えない中毒症状であったとする説もあります。

ともあれ、豊臣秀吉が死去した際に、跡取りの豊臣秀頼はまだ6歳であったと言う事は、関白・豊臣家に取っては致命的でした。

歴史にifは禁物ですが、淀殿に取っての最大の判断ミスは「関ヶ原の戦い」であったと考えます。
石田三成は豊臣秀頼の出陣を再三願い出たと言われていますが、もし、豊臣秀頼が総大将として出陣し、石田三成に協力していたら、少なくとも加藤清正福島正則は徳川勢から離脱したことでしょう。

ただ、当時、豊臣秀頼はまだ8歳であり、淀殿の母心を考えますと、我が子の命大事と大阪城にて中立的な立場を取らせたのも、理解できなくはありません。
しかし、年齢的な問題であったら、豊臣秀頼の名代を出して豊臣家としてはどっちに味方するのか態度をハッキリさせればよかった・・。
この辺りは、重大な戦略的判断ミスですが、もしかしたら、日和見しようと安易な考えが豊臣政権にあったのかも?知れません。
もし、そのような意向であったならば、政権が転がり込んで来ることはないでしょう。相手が勝負に出た時は、こっちも勝負を仕掛けないと負けます。
この時、関ヶ原の戦いで豊臣秀頼を出馬させていれば、西軍の結束力は高まり、東軍から西軍に寝返る者も出て、徳川家康に勝利していた可能性があるのではと考えます。

なお、大阪の陣でも、真田幸村などに促されても、豊臣秀頼は出陣していません。
この時は、大阪方の内部に内通者がいると言う疑心暗鬼からだったと考えられます。
もちろん、偽情報を流していたのは徳川側ですので、徳川家康の心理作戦が勝ったと言う事でして、豊臣家は内部から崩壊もし、徳川相手に勝利できる智略も無かったと言えると存じます。
もっとも、既に徳川の天下はほぼ定まっており、今さら豊臣家に味方する大名は1つもありませんでした。
これは淀殿にとっては、とても悲しい事ですよね。

いずれにせよ、豊臣秀吉の側室になり、世子をもうけた事で、淀殿は当時の女性として最高とも言える権力を手に入れ、自分の子を天下人にすることで、浅井長政、お市の方、柴田勝家らの無念を晴らそうと考えたのかもしれません。

しかし、1人の子を早く亡くし、唯一の希望である豊臣秀頼の将来を最後まで心配したと受け取れるのは、子を持つ普通の女性となんら変わらなかったのではないでしょうか?

大阪城炎上

淀殿をお嬢様として見ますと、豊臣秀吉の死後、よくここまで豊臣家を支えて来たなと感心させられます。

浅井三姉妹であるお初やお江の取り成しもあるでしょうから、大阪城が落城する際、豊臣秀頼と淀殿は降伏すれば、命だけは助けらる可能性も充分にありました。
しかしながら、徳川家康に屈服する事はせず、淀殿は豊臣秀頼と共々自刃すると言う道を選択します。
まさに、武家の娘として、また豊臣家としての「誇り」を保ったと言え、賞賛するに値するでしょう。

また、太閤殿下の大阪城も燃え盛る中、その最後の決意には、2度負けたのであれば、もはやこれ以上辱めを受けたくないと自刃したりは、母・お市の方と同様の行動に思えます。
歴史に翻弄され続けるも、最後には自分の運命を受け入れた、まさに悲劇の女性であったと言えるのではないでしょうか?

淀殿。享年50歳。

まさに、戦国の世を強く生きた、悲劇の女性と言えるでしょう。

茶々(淀殿)の評判としては、大阪の陣で勝利した徳川家側にたった史料などから見受けられたものが中心です。
そのため「悪女」など、どうしても、一般的には淀殿の評価は低く、イメージ的にも良くない部分があります。
このページをご覧になった皆様が、ちょっとでも「淀殿って実はこんな女性だったんだ」とご理解が変わりましたら、うれしく存じます。

淀殿の生涯とは?
浅井長政(詳細版)~初陣で3倍の敵兵力に勝利した勇将
小谷城の訪問記と小谷城の戦い~浅井家の滅亡・浅井御殿も
お市の方 (お市)~ 浅井長政に嫁いだ戦国一の美女 数奇な生涯と生存説も解説

コメント

  • コメント ( 2 )

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  1. バカ正直

     淀殿の悲運を読ませていただきました。信長、秀吉、家康に翻弄された悲しき女性の生涯はとても感慨深い。特に大阪冬の陣で、秀頼と自害したときは、家康に対する憎しみはいかほどであったかを思い知らされます。

    豊臣秀吉が亡くなった後は、それまでの配下の大名がことごとく徳川家康側に寝返り、大坂冬の陣にはほとんど味方がいなかった。この事は現代でも同じです。経済人、学者、マスコミ、教育者、野党までが権力者側につき国民を反故にします。ごく一部の野党でも、本質的なところでは逃げています。誠に嘆かわしく思います。

    これは、四方を海に囲まれた日本の島国根性が原因だと思われます。日本は昔から「むら社会」がはびこっています。皆と同じことをすることが大事で、正義、義理、正直などはすぐどこかに捨ててしまいます。この事が先の戦争の背景になっています。要するに思想、良識に欠けるのです。

    本当の平和とは弱者に優しくすることであります。もちろん自然界の生物にも、資源にも、地球環境にもきめ細かく配慮せねばなりません。そして金、権力、地位などから遠ざかることだと確信しています。その逆が戦争です。

    そんなくだらない事を考えて暮らしています。この淀殿の記事もとてもためになります。歴史に学ぶ事とは正にこの事に尽きると思っています。1615年に大阪冬の陣が起こりました。丁度今年で400年です。そして5月に木村長門守重成も死亡しました。不思議ですが、丁度そのごろ父親から告白された(30年前)「木村長門守重成の子孫である」との事を思い出して調べ始めました。

    木村長門守重成の一族が、その恨みを晴らしたいと叫んでいる気がしてなりません。少しでもその魂に近づけられたらと思っています、ですから茶々の言動もとても参考になりました。

  2. お忙しい中、コメントを賜りまして、誠にありがとうございます。
    ご指摘の通り、いつの時代でも権力者と申しましょうか、強者によって、領民(市民)はそのまま翻弄され、大きな流れには逆らえないのが「人が作る世」なのかな?と、過去の歴史を調べていますと、常々感じます。
    この度も、ご意見をお寄せ頂きまして、誠にありがとうございました。