古田織部~茶人も極め天下一の茶人となった武将


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 古田織部(ふるたおりべ) 古田重然(ふるたしげなり、しげてる)
 このページでは「古田織部」に統一してご紹介したい。

 古田織部は1544年、美濃国本巣郡の山口城主・古田重安の弟で古田重定(古田勘阿弥、のちに豊臣秀吉に仕える為に還俗して古田主膳重正に改名)の子として生まれた。母の名は不明。幼名は左介。
 父・勘阿弥は、のちに織田信長に茶を点てる茶の湯衆だったとも伝わる。
 のち、伯父である古田重安の養子になった。

 古田家は美濃の守護大名・土岐頼純に仕えており(土岐氏一族とも?)、織田信長が美濃攻めしたあとは、織田家の家臣となり、古田織部は使番を務めた。
 使番とは、合戦の際、敵地乗り込んで主君の伝言を伝えるという危険な任務だ。
 1568年の織田信長上洛の際には、摂津攻略に参加。この頃から荒木村重の傘下になったようで、1569年には織田信長の仲介で、茨木城主・中川清秀の妹・せんを正室に迎えた。
 
 1576年、山城国乙訓郡上久世荘(現在の京都市南区)の代官に就任。摂津の国東倉垣内西園郷に300貫。
 1578年7月、織田信忠の播磨・神谷城攻めに使番として参戦して手柄を立てた。(同年、養父・古田重安が没した)
 しかし、荒木村重が織田信長に謀反(有岡城の戦い)を起こす。
 この時は、羽柴秀吉勢として、義兄の中川清秀を説得し織田勢に戻すのに成功。
 その後も織田勢として家禄は少ないながらも、播磨攻めや、明智光秀の丹波攻め(黒井城の戦いなど)、武田勝頼攻めの甲州征伐に中川清秀と共に先陣で従軍した。
 明智光秀による本能寺の変後は、山崎の戦いの前に、中川清秀に羽柴秀吉へ人質を出すよう説得し、中川清秀や高山右近の活躍で、羽柴秀吉は山崎に戦いにて明智光秀に勝利した。

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 以後は羽柴秀吉に仕えた中川清秀と共に緒戦で活躍。茨木に古田織部は屋敷を設け、この頃、佐助景安と称していた事から佐助屋敷と呼ばれている。
 1583年1月には、伊勢亀山城の滝川一益を攻め、同年1583年4月には柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでも軍功をあげた。
 この時、中川清秀は戦死したため、中川家の家督を継いだ中川秀政の後見役となり、以後は中川秀政と共に小牧・長久手の戦い、紀州征伐、四国平定にも出陣した。

 茶の湯の師匠である千利休の弟子にいつ頃なったのかは不明だが、1582年から千利休の書状に古田織部の名(左介)が見られる。ただし、若い頃から千利休に茶を学んだとする説もある。

 1585年7月、豊臣秀吉が関白になると、古田織部は長年の功績を賞されて、従五位下織部正(織部助)に任ぜられ、古田織部と呼ばれるようになった。そして、山城国西岡に35000石を与えられ大名となる。
 西の岡は、長岡京駅辺り。城跡などは確認できないが、城主となると義父・古田重安の実子で義弟に当たる古田重続を美濃から呼び寄せ、古田織部は自身の長女を中川秀政の養女とした上で古田重続の正室にし、古田重続を中川家の家臣に加え、のちに古田織部の直系が途絶えた後も中川家の家老として存続した。
 また、織田信長が亡くなってから廃れていた出身地の美濃窯元に私財投じて、多大な援助を行い、美濃焼の窯元に新たな名「織部十作」を与えた。

 1585年9月、大名となったことから、中川秀政の後見職を免ぜられ、その後は、豊臣秀吉の九州征伐、小田原攻めにも参戦し、文禄の役では豊臣秀吉の後備衆として兵150を率いて名護屋城・東二の丸にて在番衆を務めた。ただし、朝鮮に渡航はしなかったようだが、朝鮮から連れてきた陶工を中心に唐津焼を指導したようだ。

 古田織部は、蒲生氏郷細川忠興・高山右近らと共に、千利休門下の茶の湯上手である「利休七哲」のひとりとされるが、千利休の「人と違う事をしろ」という教えから、千利休とはだいぶ趣向が異なっていたようで、武家好みの動的で、大胆かつ自由な気風の流派を確立。
 茶の湯だけでなく、茶器製作・建築・造園などにも携わり「織部好み」と呼ばれる一大流行を生み出し、各界の著名人との人脈と影響力も持った。
 千利休は詫び茶、古田織部は武士茶で、不均衡さに美を見いだす茶の湯作品が現在も伝わる。

 1591年、羽柴秀吉によって千利休の追放が決まると、千利休と親交のあった諸将は、羽柴秀吉の怒りをかう事を恐れて千利休を訪ねさえしなかった。
 しかし、古田織部と細川忠興だけは、堂々と千利休を見送っだ。堺衆の今井宗久、津田宗及も亡くなると、豊臣家の茶頭を古田織部が継ぎ、天下の茶人となった。
 茶の湯の弟子は、小堀遠州、上田宗箇、徳川秀忠、金森可重、本阿弥光悦、毛利秀元らがいる。

 1598年8月18日に豊臣秀吉が没すると、実の父・古田重定が殉死。古田織部(55際)は、嫡男・古田重広に家督を譲り、伏見の自邸に隠居した。
 伏見の自邸で頻繁に催される茶会には、大名や神宗湛などの豪商も通ったと言い、以後は懇意であった徳川家康に接近した。

 徳川家康から徳川秀忠に茶の指南を頼まれ、この頃から江戸に滞在したようだ。

 1600年9月、関ヶ原の戦いでは石田三成に味方しようとした常陸の大名・佐竹義宣を、茶の湯の弟子だった事からの縁で不戦を誓わせ、関ヶ原本戦にも出陣して徳川家康から10000石の加増を受けた。
 1603年、京都・堀川に菩提寺「興聖寺」を建立。
 徳川政権下では、2代将軍・徳川秀忠に茶の指南を行った事もあり、古田織部は茶の湯を通じて小堀遠州をはじめとし、伊達政宗加藤清正浅野幸長池田輝政や聖護院親王、慈胤法親王など朝廷・貴族・寺社・経済界とも様々なつながりを持ち、名実ともにまさしく天下の茶人として全国の大名に多大な影響を与える絶頂期となった。

 1610年には清州城にあった「猿面茶屋」を名古屋城に移築。1612年には 江戸にて「織部百ヶ条」を著し茶の流儀を固めた。

 しかし、大坂夏の陣の際、古田織部の茶頭である木村宗喜が豊臣家に内通し、京の都への放火を計画したと言う疑いで、京都所司代の板倉勝重に捕らえられた。
 この頃には京に戻っていた古田織部は、名古屋まで向い徳川家康勢と合流したが、その後、古田織部自身も、大阪冬の陣の頃から豊臣家と内通し、徳川勢の軍議秘密を大坂城内へ矢文で知らせた]などの嫌疑をかけられ、大坂落城後の1615年6月11日に切腹を命じられた。
 徳川家康の暗殺計画も企てたと言う説もあり、古田織部は「かくなるうえは 申し開きも見苦し」と一言も釈明せずに切腹したと伝わる。享年72。
 連座として同時に古田重広も切腹となり、木村宗喜ら24名も処刑されている。

 古田織部の遺骸は大徳寺玉林庵に葬られた。

 茶道の師であった千利休と同様に、反骨精神が旺盛で、江戸幕府の意向を無視することが少なくなかったとも言われ、その影響力・存在を江戸幕府が危険視するようになったと考えられる。

古田織部の子

 長女(名前不明)は、古田重続の正室。

 古田重嗣は、正室に仙石秀久の娘を迎え、古田織部隠居後、家督を継いでいたが、古田織部共々切腹。妻と娘は仙石家お預けとなった。

 古田重尚(古田左介)は次男で、加賀藩士となった模様だが、古田織部自害の際に同じく切腹となった模様。

 古田重広(古田重廣、小三郎)は3男で、姫路藩の池田家家臣であったが、やはり古田織部自害の際に同じく切腹。

 古田重行(九郎八 九八郎)は、豊臣秀頼の小姓だった模様。大坂城から脱出した後に自害させられたが、上記兄弟のいずれかと同一人物の可能性があるか、架空人物なのか詳細は不明。

 古田重久(古田左近)は5男で将軍・徳川秀忠に仕え、唯一、古田家を継げる立場であったが、大阪夏の陣で討死。又は、兄たちと共に自害したとも。

 次女(名前不明)は、浪人・鈴木左馬介の正室になった。

 古田織部の死後、彼の茶道は一門で娘婿の古田重続が、豊後岡藩中川家の家老として藩内のみで受け継いでいった。
 明治維新で幕府がなくなると、子孫は東京に出て「織部流」の普及にあたり今日に至り、千葉県指定無形文化財に指定されている。

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