吉川広家~うつけから不忠者?関ヶ原で毛利家を救った武将


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吉川広家(きっかわ-ひろいえ)は、1561年11月1日、毛利元就の次男である吉川元春の3男として生まれた。幼名は才寿丸。
母は正室である熊谷信直の娘(新庄局)。

才寿丸は、うつけと称され、父・吉川元春が嘆いたとする逸話もあり、杯を受ける際の礼儀作法が悪かった他、3男で所領が少ない事から勝手に小笠原長旌の養子になろうとして、両親から怒られたと言う記録もある。

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1570年、尼子勝久との戦いに父と出陣し、10歳で初陣。
1583年、小早川隆景の養子である小早川元総と共に、毛利家から羽柴秀吉への人質となり、森重政・森高政と人質交換された。
なお、小早川元総は羽柴秀吉から寵愛を受けて、豊臣家の大名となったが、吉川広家はすぐに毛利家へ帰されている。

1586年、豊臣秀吉の九州平定に病を押して出陣していた父・吉川元春が小倉城にて死去(享年57)すると、その後を追うように兄・吉川元長も1587年に日向で死去する。(享年40)

兄・吉川元長には嫡子がいなかったため、本来であれば吉川家は取り潰しでもおかしくなかったが、黒田官兵衛が羽柴秀吉に願い出て、吉川広家(27歳)が家督を継ぐことになった。
そして、日野山城に入るが、すぐさま羽柴秀吉の命を受けて、肥後国人一揆鎮圧のため出陣し、立花宗茂、高橋統増、筑紫広門、鍋島直茂安国寺恵瓊らと総大将・小早川秀包に協力した。

その後、吉川広家の手腕は高く評価され、1588年7月25日には豊臣姓と羽柴の名字を下賜され、従五位下となり侍従を任官した。その後、従四位下に昇叙して侍従如元となっている。

1588年10月、宇喜多直家の娘(宇喜多秀家の姉)が豊臣秀吉の養女となり、吉川広家の正室となった(容光院)。
しかし、僅か2年後の1591年春に、20歳ほどの若さで容光院は病死してしまう。
その後、吉川広家は正室は置かず、側室のみに留め、容光院の菩提を弔ったと言う。

1591年、月山富田城へ移封されて、14万石となり、その後の朝鮮出兵でも加藤清正の救援などで武功をあげている。

1597年、叔父・小早川隆景が亡くなると、毛利家を支えを失った毛利輝元は、毛利秀元と吉川広家に毛利家を支えるよう要請し、毛利輝元から祖先・大江広元の諱である「広」の一字を与えられ、吉川広家と改名すねも、豊臣秀吉と親しい安国寺恵瓊とは対立した。

1599年7月、吉川広家は京都伏見城にて浅野長政と喧嘩し、お取りつぶしの危機ともなったが、この時は黒田長政が仲介して取潰しを免れている。

1600年、関ヶ原の戦いとなる際に石田三成が挙兵すると、西軍への参加要請は拒否し、毛利輝元には徳川家康に加担するよう説得しようとしたが、先に接触した安国寺恵瓊らによって、毛利輝元は大阪城へ入ってしまった。
吉川広家も大阪城へ入り、安国寺恵瓊と激論を交わし毛利輝元を説得するも、毛利輝元は西軍の総大将となってしまう。

そのため、家臣の服部治兵衛と藤岡市蔵を駿府城へ派遣し、毛利家重臣の・宍戸元続・益田元祥・熊谷元直とも計り、黒田長政を通じて徳川家康に内通し、毛利領の安堵を取り付けた。
なお、藤岡市蔵が黒田家の家臣・小川喜助によって、徳川家康の元に連れていかれると、徳川家康は大いに喜び、藤岡市蔵に金貨を与えている。
その一方で、安濃津城攻めでは、西軍主力として奮戦したため、黒田長政・徳川家康も一時疑っている。

1600年9月7日、関ヶ原へ進軍すると、毛利輝元の名代である毛利秀元(22歳)は南宮山の山頂に布陣し、吉川広家(40歳)は南宮山の北側に布陣し、先手を任された。

関ヶ原の戦い前日である1600年9月14日、徳川家康が赤坂に布陣すると着陣すると、吉川広家は徳川本陣に使者を送り、改めて内応する意思を示し、井伊直政から「毛利家の領土を安堵する」という確約を得ている。

大垣城にいた石田三成が関ヶ原に転陣すると、徳川家康も進軍し、桃配山に本陣を置いたが、徳川家康は念の為、背後にいる毛利秀元らの押さえとして、池田輝政4500と浅野幸長6500を配置している。

関ヶ原の本戦の際には、南宮山に布陣している吉川広家と毛利秀元の重臣・福原広俊は、徳川家康に人質を差出している途中であり、安国寺恵瓊・長宗我部盛親長束正家の使者が出撃要請をするも、吉川広家は霧がまだ濃いなどとして拒否した。
そして、石田三成が総攻撃の合図である狼煙を上げても、吉川広家が動かないと、出撃できない毛利秀元に対しても「これから弁当を食べる」と言い「宰相殿の空弁当」という言葉が生まれた。
なお「弁当を食べる」と言う言い訳をしたのは、吉川広家が出陣に反対して動かないため、南宮山を下りることが出来なかった毛利秀元が、長宗我部盛親の使者に対して答えたともされる。
※毛利秀元は毛利宰相秀元と呼ばれていた。

その後ね松尾山に布陣していた小早川秀秋が東軍に寝返ると、関ヶ原の戦いは勝負が決し、南宮山の東側に布陣していた西軍の長宗我部盛親・長束正家・安国寺恵瓊らはほとんど戦わずに撤退した。

その時、黒田長政や井伊直政からは「毛利の領土を安堵する」という約束を取り付けていたが、徳川家康からは直接の約束を得ていなかったとされ、戦後、徳川家康は難癖を付けると本領安堵の約束を反故にし、毛利輝元の領土を没収して、周防・長門の2ヶ国を吉川広家に与えると言う裁決を下した。

しかし、吉川広家はこの沙汰に対して、毛利本家存続のためひたすら謝罪し「周防・長門の2ヶ国を毛利輝元に与えて欲しい」と願い出た。
こうして、10月10日、徳川家康は周防・長門の2ヶ国を毛利輝元に与え、毛利輝元・毛利秀就の安全を保障する。

毛利家は本拠地を萩城と定め、長州藩を分割し、吉川広家は岩国領3万石を与えられた。
なお、長府・徳山・清末の三家は支藩となったが、岩国領は毛利家の家臣の領地と扱われた。
しかし、徳川家康から岩国城の築城は許されて、大名扱いとなり参勤交代も課せられている。

1614年、大坂冬の陣の際には、毛利秀元が毛利輝元・毛利秀就らと計って、極秘に内藤元盛(佐野道可)を大阪城に派遣したとされる。
この事実を知った毛利広家は激怒し、1614年12月22日、隠居すると嫡男・毛利広正に家督を譲った。
しかし、岩国領の実権は毛利広家が握り続け、領内を整備し実質10万石ともされる岩国市の基礎を築いた。

1625年9月21日に死去。享年65。

上記は岩国城下にある吉川広家の墓。

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