源実朝公御首塚と波多野城~本当の波多野城跡は?


スポンサーリンク
スポンサーリンク

秦野は古来に朝鮮から渡って来た秦氏らが、大磯から相模に上陸して、ここ秦野まで進出した場所と考えられている。

その秦野を流れる金目川沿いにあるのが波多野城跡と言う事になり、歴史小説家・永井路子さんも、その地勢を大絶賛されている。
小生も現場を訪れてみると、いかにも城跡と言う地形であり立派な「波多野城跡」の石碑も雰囲気をかも出している。

しかし、1987年から約4年間に渡り7回ほど発掘調査をした結果、城跡と言う痕跡を見つけることができず、城跡では無い可能性が高くなってしまった。

ただし江戸時代の「新編相模国風土記稿」では、寺山村には平安時代の末から鎌倉時代にかけて支配した波多野氏の城址があった明記されているので、この付近に城(館)があったのは間違えないだろう。
となると、波多野城は東中学校の方を走る県道70号沿いであったと推測するのが妥当なように思え、波多野城と言うよりは防御機能は弱い「波多野館」と呼ぶのが相応しかったのかも知れない。

 スポンサーリンク


なお、西側には源実朝公御首塚がある。

源頼朝北条政子の第4子で、鎌倉幕府の3代将軍となっていた源実朝(みなもとのさねとも)は、1219年1月27日、右大臣任官の祝賀のため、約60cmの雪が積もる中、鎌倉の鶴岡八幡宮を参詣した。
夜になって退出した際に「親の仇」として、公暁(くぎょう、こうきょう)によって源実朝が殺害されてしまった。享年28。

この公暁は、2代将軍・源頼家の次男(または3男)で、12歳のときに出家していたが、北条義時によって父・源頼家が追放・暗殺されたことを恨んでいた。
なお、この公暁は予見されていたようで、源実朝が鶴岡八幡宮に向かう際には大江広元が涙を流して、着物の中に「防具」を着けるようにと進言したが「大将たる者に未だそのように例はなし」と断られたともあり、また、源実朝の側で太刀持ちをしていた北条時政は、八幡宮の楼門に至ると体調不良を訴えて、源仲章が太刀持ちを代わっていた。
その源仲章も、北条時政に間違えられたのが、源実朝と一緒に殺害されている。

逃げ惑う公卿らと、何事かと境内に入ってきた警護2000名の武士をよそに、公暁は源実朝の「首」を持って雪の中を逃走。
協力者である下北谷の備中阿闍梨宅に寄ると、食事の間も源実朝の首を離さなかったと言う。
そして、三浦義村を使いに出して「今こそ我は東国の大将軍である」と、公暁は第4代将軍就任を宣言した。
この時、三浦義村は2代執権・北条義時にこの事を告げて自邸に戻り、公暁には「迎えの使者が来る」と偽りの知らせを届けた。
報告を受けた北条義時は、協議の結果、公暁を討つため長尾定景、三浦義村、北条義時ら5名が向かった。

迎えが来ると言うのに、すぐに来なかったのを不審に思った公暁は、背後の山を登って脱出し、三浦義村の屋敷に向かった。
長尾定景らに発見され、三浦義村の屋敷脇にたどり着いたところを公暁は討ち取られたと言う。享年20。

さて、殺害された源実朝の首は、鎌倉では所在不明となっているが、胴体は葬儀ののち現在の鎌倉・寿福寺に葬られている。
下記写真は鎌倉の源実朝の墓。

当時、首級には「霊魂が宿っている」と考えられており、このまま鎌倉に置いて怨霊と化すのを恐れたようで、源実朝の首は現在の秦野市に運ばれていった。
公暁を討ち取った三浦氏の家来である武常晴(つねはる)らが、三浦家と仲が良かった波多野忠綱の領地を訪れ、供養を願い出たとされる。
なお、地元の伝承では、公暁を討ち取ったことで行方不明になった源実朝の首を偶然見つけた武常晴が、波多野忠綱を頼って訪れ、葬ったとされ、晩年は秦野・寺山に移り住んで供養したと伝わる。

そして、手厚く葬られたのが、現在の秦野市にある「源実朝公御首塚」と言う事になり、木造の五輪塔が添えられた。

1250年、波多野忠綱が金剛寺を再興した際に、首塚は石造に改修されたそうで、撤去さりた木造の五輪塔は、現在、鎌倉の国宝館にて展示されている。

なお、首塚周辺の発掘調査の結果、源実朝公御首塚の西側一帯から、中世居館跡の遺構や遺物が多数出ていることから、その場所こそが波多野忠綱の屋敷跡、すなわち波多野城跡(波多野館跡)と推定されるようになってきている。

源実朝公御首塚がある場所だが、下記の地図ポイント地点の「田原ふるさと公園」無料駐車場が便利で、そこから徒歩で0分。

北条政子の墓【北条政子ゆかりの地を散策】源実朝の墓も
北条時政とは~伊豆韮山にある願成就院、執権・北条時政の生涯と牧の方について
田原城主の大藤政信と秦野の香雲寺【北条家で活躍した重臣】
三浦義澄と三浦義村とは~三浦半島にある三浦義村の墓
訪問しておきたい神奈川県の城郭・寺院・古戦場など一覧リスト

スポンサーリンク

関連記事

コメント

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (0)

  1. この記事へのコメントはありません。

 スポンサーリンク

気になる戦国女性

  1. 古文書に魅了されて早うん年の戦国未来(せんごくミク)と申します。 今回ご紹介するのは、『以貴小…
  2. 竹林院(ちくりんいん)の生年は不明。 本名は利世(りよ)、安岐姫ともあるが、小説などでの創作名であ…
  3. 山手殿は宇多頼忠の娘という説が有力だが、武田信玄の家臣・遠山右馬助の娘とする説もあり、良くわかってい…

人気の戦国武将

  1. ▼徳川家康は天文11年(1542年)に、三河国(現在の愛知県東部)岡崎城で小大名・松平広忠の嫡男とし…
  2. 安土城(あづちじょう)は、琵琶湖東岸の標高199m安土山に織田信長が命じて築城した山城(比高112m…
  3. 北条氏康(ほうじょう-うじやす)は、小田原北条氏の第2代当主・北条氏綱の嫡男として1515年に生まれ…

オリジナル戦国グッズ

限定「頒布」開始しました。無くなり次第終了です。
戦国オリジナルバック

 スポンサーリンク
当サイトでは
Android app on Google Play
↑ アプリ版もあります
 オリジナル書籍
柳生一族
2016年10月、書籍・電子書籍にて販売開始

 オリジナル電子書籍

2016年8月、戦国武将研究会著作
ページ上部へ戻る