お濃 濃姫 お濃の方 帰蝶 鷺山殿 謎多き生涯

スポンサード リンク


 濃姫(帰蝶)は美濃の大名・斎藤道三の3女で1535年生まれとも。母は明智光継の娘である小見の方。
 兄弟には斎藤利治がいる。斉藤義竜とは異母兄妹。
 明智光秀とは従兄妹同士という説もある。
 小見の方は、1532年に長井規秀(のちの斎藤道三)に嫁いだとされ、帰蝶の生まれ年は1535年と推測されている。
 「美濃国諸旧記」と「武功夜話」によると名前は帰蝶。
 斎藤道三の娘にして、織田信長の正室にも拘わらず史料が非常に少なくよくわかっていない。

 平手政秀の功もあり、帰蝶(13歳?)は1548年の秋に、織田信秀の嫡男・織田信長に嫁いだ。2人の間には子ができなかったとされる。
 斎藤家の菩提寺常在寺に父・斎藤道三の肖像を寄進した事は、良く知られているが、濃姫が織田家に嫁つぐ際「織田信長が、まことうつけ者であったならばこの刀で刺せ」と言う話は江戸時代に創作された物と推定できる。

 テレビドラマや小説などでは、度々登場する濃姫だが、結婚後の生涯は謎に包まれており不明な点が多く、織田信長が本能寺の変明智光秀に敗れた後も、動向や没年など、良く分かっておらず、濃姫の墓所、墓石も特定されていない。
 その為、本能寺の変で、薙刀で明智勢に抵抗して討死したとする説もある。
 織田信長のことが多数記載されている「信長公記」でも、濃姫の事に関しては全く書かれていない。

 本能寺の変の直後、蒲生賢秀が安土城から、織田信長の子女・側室達を日野城に避難させたが、その中に「安土殿」と言う名が見え、その人物が濃姫だとする説もあり、織田信雄分限帳に「六百貫文 アツチ殿」と言う記述も見られる事から、本能寺の変のあとも生存していたと推測される。
 
 没年の説は下記の通り。

 斎藤義龍が1561年に病没したすぐあとに濃姫も死亡とも。濃陽諸士伝記にそのような記述がある。
 1556年とも? いくつかの史料で生駒吉乃の事を「御台」という正室の呼び名で記している事から、織田信忠が誕生した時にはすでに濃姫は織田信長の側を離れていたとする。そして、斎藤道三が1556年に亡くなったあと、濃姫は明智城に戻っていたが斎藤義龍が9月に明智城を攻め、命を落としたとする。およそ21歳。
 本能寺の変でなくなったと言う理由は、濃姫の遺髪を埋葬したとされる濃姫遺髪塚が岐阜県不動町にある為で、およそ47歳。
 1612年説では、大徳寺総見院の織田家墓所の織田家過去帳にある「養華院殿粟津妙大姉 慶長十七壬子七月九日信長公御台」から。およそ77歳。(実際の墓石に記された文字は解読不能)

 ただし、上記史料ではいずれも「御台」などと言う表現で、その御台が濃姫だと示す証拠はない為、正確な没年がわからないのである。

his sengoku88 31 お濃 濃姫 お濃の方 帰蝶 鷺山殿 謎多き生涯  お濃 濃姫 お濃の方 帰蝶 鷺山殿 謎多き生涯 br c 1761 1 お濃 濃姫 お濃の方 帰蝶 鷺山殿 謎多き生涯

スポンサード リンク


↓ 皆様からの心暖まる一票 ↓ 御礼申し上げます。今後の励みになります。

更に読んで歴史に強くなりましょう 関連する人物など

kiyosu2

清須会議とは(清洲会議とは) 清洲城・織田家宿老の会議

清洲会議・清須会議(きよすかいぎ)  1582年6月2日、明智光秀による本能寺の変で、織田信長

続きを読む

sakamoto

明智倫 (明智倫子、お倫) ~明智光秀の長女

 明智倫 (明智倫子)は明智光秀の三男四女の長女であるが、本当に「お倫」と言う名であったかは不明。

続きを読む

no image

直江兼続の正室 お船の方

直江兼続没後のお船の方  直江兼続は正室・お船の方と大変仲が良かったとされ、直江兼続は生涯側室を持

続きを読む

OSEN

宇喜多直家の継室・お鮮 (おふく)

 お鮮は宇喜多直家の継室。1549年に生まれた。  出自は、鷹取氏又は三浦氏の娘と考えられる。

続きを読む

no image

小山田高家と浄瑠璃姫伝説(長池伝説)

 1331年、新田義貞の挙兵に小山田高家(小山田小太郎高家)なる人物が参加し、小山田郷を取り返した。

続きを読む

hidemitsu

明智秀満 本能寺の変を明智光秀が最初に相談した重臣

 まずは明智秀満の「出自」からご案内したい。  出自は諸説ある。  明智秀満は当初、三宅弥平

続きを読む

yodo

淀殿(淀の方) 豊臣家・我が子の為に生涯を全うした強き女性

 淀殿(よどどの)は1569年に近江・小谷城にて誕生した。  父は浅井長政で、母は織田信長の妹・お

続きを読む

no image

豊臣秀吉の小田原攻め

 武田勝頼亡くなり武田を滅亡させた織田信長であったが、本能寺の変で明智光秀に討たれると、織田家の支配

続きを読む

no image

「情報」が戦闘の勝ち負けを決める

 戦(イクサ)と言うものは「情報」が命だと私は考えます。  そうです。敵を良く知ることが、勝負の分

続きを読む

no image

中川清秀の正室・稍姫

 稍姫(やや)は、熊野田隠岐守(熊田宗白)の娘。  生年1546年~没年1612年。  熊野

続きを読む

mathumoto
石川数正 徳川家康の家老職を捨て、豊臣秀吉に寝返った智将

 石川数正は、1533年、石川康正(石川康政)の嫡男として三河で生まれ

20140706160622596
東京国立博物館のススメ 武将関連 国宝も多数

 先日、東京国立博物館に行って参りました。    どんな国にも「国

20140722144733232
箕輪城 探訪記と写真集

 箕輪城(みのわ)は、1512年(又は1526年)に長野尚業が築いた丘

yurikama
由利鎌之介 鎖鎌の名人 (真田十勇士)

 由利鎌之介(ゆり かまのすけ)は、真田三代記や大坂夏陣図にも、由利鎌

tadakatsu
本多忠勝 名槍が似合う豪将・徳川四天王

 本多忠勝は、三河国額田郡蔵前(愛知県岡崎市西蔵前町)にて本多忠高の長

→もっと見る



  • ご共有賜り、誠にありがとうございます。




PAGE TOP ↑