山内千代(まつ、見性院)と千代の生家である若宮家屋敷跡~山内一豊の正室

山内一豊の正室・山内千代(まつ、見性院、山内ちよ)は、1557年に生まれました。
近江浅井家の家臣・若宮友興(若宮喜助友興、若宮左馬助)の娘であったする説が有力です。
若宮友興(若宮喜助友興、若宮左馬助)は、もともと京極氏の六家老の一人でしたが、この頃には小谷城主・浅井長政に従っていました。
他には東氏一族の遠藤盛数の娘とする説もあります。
これは岐阜県郡上市の慈恩寺に伝わる郡上八幡城主・遠藤家の系図に、遠藤盛数の娘が山内一豊の正室であるとの記載があった事によります。


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若宮友興説のほうでご紹介しますと、1566年に父・若宮友興が討死し、叔母の夫である不破氏に養われたいた千代(まつ)ですが、長じて飯村に戻ったとされています。
これは浅井長政が千代(まつ)を若宮家の当主としてみなし、存続させていた為ともされています。

一方、山内一豊の父・山内盛豊は1559年に討死(自刃)し、山内一豊や母である法秀院(ほうしゅういん)らは諸国を流浪していました。
そして、近江・宇賀野(現在の米原市北部)の長野家に身を寄せ、近隣の娘たちに裁縫や行儀作法を教えていると、その中に若き千代(まつ、見性院)がおり、見性院の目に留まったとされます。

戦国時代は男の出世は妻次第であると、良い娘を娶らせたいと考えていた法秀院は、千代(まつ、見性院)を山内一豊の妻にと考えたようです。


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22歳になった山内一豊は1566年に織田信長に仕えるようになると、木下藤吉郎(豊臣秀吉)の与力に加わります。
そして、1570年、山内一豊が26歳のとき、14歳の千代(まつ、見性院)は結婚しました。
千代は、不破重則(不破市之丞)の元で育てられおり、牧村政倫の媒酌で結婚式をあげたとも言われています

夫・山内一豊は姉川の戦いで戦功を挙げ、刀禰坂の戦いでは奮戦するも顔面に矢を受ける重傷を負います。
しかし、山内千代(まつ、見性院)などの懸命な看護の甲斐もあり回復すると、1573年には近江・唐国にて400石となりました。

1580年、唯一の実子となる長女・与祢(よね)が誕生。

1581年に織田信長京都・馬揃えを行った際、千代は嫁入りの際持参した支度金10両にて、山内一豊のために、東国第一の立派な馬を購入したのは「内助の功」として有名な話です。
このように良妻賢母とされる千代ですが、この頃の山内一豊の知行は2000石であったと推定されており、ゆとりある生活を既に送っていたようです。
そのため、もっと早い時期に立派な馬を購入したのだろうと推測されています。
ちなみに、当時の10両は、現在の価値で120万円~250万円程度となります。

1585年、山内一豊が豊臣秀次の宿老となって19800石にて長浜城主となりますが、11月29日の天正大地震にて長浜城が崩壊し、長女・与祢(よね)が落命しました。享年6。

それ以降は子供には恵まれず、捨て子を拾って育てたのが、のちに妙心寺に入り修業を積んだ湘南宗化だとされています。
山内一豊は跡継ぎにすることも考えたようですが、捨て子では家臣の忠誠を保てないと言う進言から、10歳で京都の妙心寺に入れたと言います。

山内一豊は、小田原攻めのあとには50000石で掛川城主となり、関ヶ原の戦いに際しては、真っ先に掛川城を徳川家康に進呈したことから、東海道の諸将もこれにならいます。

大阪城下にて石田三成の人質となっていた千代も、石田三成の監視下にありながら、夫・山内一豊に豊臣側の情報を報告する為、逐一手紙を出しています。
自分はどうなってもいいから、徳川家康に忠義を尽くすようにと、随時届く密書を、山内一豊は開封せずに徳川家康に手渡したとされていますが、恐らくは千代がそうするようにと言付したものと言われています。

そのため、関ヶ原の戦いでは目立った軍功が無いにも関わらず、この2つが評価されて、山内一豊は土佐24万石へと大出世しました。

1603年には高知城を築城し、山内一豊は弟・山内康豊の子である山内忠義を養子に迎えて跡継ぎとしています。

夫・山内一豊の死後、千代(まつ、見性院)は1000石の隠居料を得て、京都の妙心寺近くに移り住みました。


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浪人の身である山内一豊を一国の主になるまで支えた千代の話は司馬遼太郎の「功名が辻」でも有名ですが、京でも千代は引き続き徳川家と豊臣家との外交にも尽力して山内家を助けてました。

1617年12月31日、京都にて千代(まつ、見性院)は死去。
奇しくも夫・山内一豊の享年と同じ61でした。

山内一豊の墓所は高知市の山内家墓所ですが、京都妙心寺には山内一豊夫妻の廟所があります。

下記は千代(見性院)の肖像画となります。

山内千代(見性院)

千代の誕生地「若宮家屋敷跡」

「千代紙」の名の由来にもなった千代ですが、その出生地とされる場所は近江国飯村(現在の滋賀県米原市飯)です。(諸説あり)
現在、若宮家屋敷跡として小さいながらも若宮公園として整備されています。
標高は90mですが、比高0mの平坦地となります。

若宮家屋敷跡

最初、集落の東側にある県道からそれようとしたのですが、道がとても狭く、北側から西へと回り込んで、八幡神社から集落へと車で入りました。
若宮家屋敷公園(若宮公園)の脇には、砂利の上に数台止められる無料駐車場があります。
下記の地図ポイント地点がその駐車場がある場所となります。

若宮氏館跡は公園と言うか、広場のようなところでして、すぐ脇は北陸本線の線路となっています。

若宮家屋敷跡

地図では道が広そうに見えますが、実際には本当に狭いです。
線路を渡るのにはガードをくぐるようになっています。
しかし、高さも無いので、とにかく西側からのアプローチが得策です。

若宮家屋敷跡

現在は、若宮氏家臣団の子孫で結成された「外記仲間」という団体が、若宮家代々の追悼法要などを行っているそうです。

本宮跡

上記は、若宮氏館跡の北西すぐの場所にある「本宮跡」の石碑です。
若宮氏が歓進した八幡神社の元宮があった場所で、1400年頃の創建でしたが、戦国時代に若宮氏が現在の八幡神社の場所に移しました。
元宮跡は「どじょ野」と呼ばれる聖地となっています。
そのため、不慮に立ち入ると、にわかに腹痛が起こると言う伝承がある為、もちろん外側から撮影させて頂きました。

北陸本線の東側には、島左近の屋敷跡とも推測されている「春日神社」がありますので、若宮公園から「徒歩」にてご訪問なさってみて下さい。

さて、千代が遠藤盛数の娘であると言う説の方も、郡上八幡城のコーナーにて触れていますので、念のため記載致します。


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山内千代に関するものは、関ケ原のあとに所領である高知城にもあります。
下記は高知城にある、山内一豊の妻の銅像です。

山内一豊の妻の銅像

高知城の天守では、大河ドラマ「功名が辻」にて「千代」を演じた仲間由紀恵さんが来た打掛も展示されていました。

仲間由紀恵さんが来た打掛

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