結城秀康とは 文武両道の福井城主も若すぎる死を遂げる

結城秀康

結城秀康(ゆうき-ひでやす)は、徳川家康の次男として浜松の有富見村にある中村正吉の屋敷にて1574年2月8日に生まれました。
幼名は於義丸(おぎまる)で、母は永見吉英の娘・於万の方(長勝院)です。

2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」では俳優の岐洲匠さんが結城秀康を演じられます。

母になる於万の方は、徳川家康の正室・築山殿の奥女中を務めていた女性です。
徳川家康の子を身籠ると、徳川家康は築山殿の勘気を恐れ、於万を本多重次のもとに預けました。
そのため、浜松城で誕生した訳ではないと言う事になります。

なお、結城秀康は双子で誕生したと言う説があります。
兄は永見貞愛(ながみ-さだちか)とされていますが、当時の双子出産は「犬畜生と同じ双子腹」と言われ、嫌がれたため、先に生まれた方を処分する慣習がありました。
そのため、永見貞愛は夭折したことにし、母・於万の方の実家・永見家に預けられて育ち、のち知立神社の神職を譲り受けたとされます。


スポンサーリンク



また、正室・築山殿に配慮したともされますが、徳川家康は、結城秀康が3歳になるまで、対面すらしませんでした。
この冷遇を不憫に思った、徳川家康の嫡男・松平信康が仲介し、ようやく会ったと言われています。

その松平信康が謀反の疑いを掛けられて、1579年にに切腹となると、本来であれば次男の結城秀康(6歳)が家督を継ぐ立場でした。
しかし、1584年の小牧・長久手の戦いの後、徳川家と羽柴秀吉が和睦した条件として、11歳の結城秀康は実質的な人質として羽柴秀吉の養子となりました。
そのため、徳川家康の跡継ぎは、異母弟の長松(後の徳川秀忠)とされたのです。

結城秀康が羽柴家(豊臣家)に赴いた際に徳川家康は名刀・童子切安綱(国宝)を授け、傅役・小栗重国(小栗大六)、小姓・石川康勝(石川勝千代)、本多成重(本多仙千代)が従っています。
1584年12月22日に、羽柴家にて元服すると、養父・秀吉と実父・家康の名から一字ずつ取り、羽柴秀康と称しました。

そして、1587年、14歳のとき豊臣秀吉の九州攻めにて初陣を果たします。
特に、豊前・岩石城攻めでは先鋒を務め、日向の平定でも功績を挙げました。
武将としての器量も周囲から認められ、武勇も抜群だったようです。


スポンサーリンク



1588年には豊臣姓を下賜され、1590年の小田原攻め、1592年からの朝鮮攻めである文禄・慶長の役にも参陣しましたが、名護屋城での留守居役です。

1589年、豊臣秀吉と茶々(淀殿)の間に鶴松が誕生すると、鶴松を生後4ヶ月で豊臣家の後継者とします。
そのため、養子だった勇気秀康(17歳)は、他の養子同様に、他家へ更に養子として出されることになりました。

こうして、黒田孝高(黒田官兵衛)の仲介もあり、北関東の大名である結城晴朝の姪・鶴子(結城晴朝の養女、江戸重通の娘)と結婚し、結城氏の家督を継ぎ11万1000石の大名となり、羽柴結城少将と呼ばれました。
これは、江戸城主である徳川家康に対しての、実質的な加増でもあります。

ただし、当時の結城家では当主・結城晴朝は、既に養子として結城朝勝を迎えていました。
当主・結城晴朝と豊臣家との縁組を望んでいたようですが、相続権が無くなった結城朝勝は、実家の宇都宮国綱のもとへ戻っています。
そして、隠居した結城晴朝は5000石を与えられて結城秀康に従いました。

なお、結城秀康の側室は下記となります。

側室・岡山(中川一元の娘)
側室・駒(小田氏治の娘)
側室・長寿院(奈和、津田信益の娘)
側室・品量院(三好長虎の娘)

ちなみに、石田三成が失脚した際には、佐和山城まで結城秀康が警護して送り届けたことから、礼として名刀・五郎正宗(石田正宗)を譲り受けたとされます。

1600年、関ヶ原の戦いで、結城秀康は徳川家康に従いました。
この時、結城秀康(27歳)は上杉景勝佐竹義宣の抑えとして、宇都宮城を任されました。


スポンサーリンク



戦後、越前・北庄67万石に加増移封されると、柴田勝家北ノ庄城跡に、6年の歳月を掛けて福井城が天下普請されました。
天守は7層(一説には9層)と壮大で、安土城に匹敵する巨城だったと伝わります。

福井城

67万石と言うのも徳川家の一族では最高の石高です。
下記は福井城跡にある結城秀康の銅像です。

結城秀康の銅像

1605年、結城秀康は権中納言に昇任。
その後、1607年には伏見城番を担当しました。
伏見城では、出雲の阿国を招くと、天下第一の女人と認め、自分が天下人では無いことを無念に感じていると述べたと言われています。
ある日、徳川家康が後継者は誰が良いかと重臣に問うと、本多忠勝本多正信本多正純の3人は結城秀康を支持し、大久保忠隣だけが徳川秀忠を推したとも伝わります。
武芸に秀でた本多忠勝、そして智略に優れた本多正信の2人が押したとすると、結城秀康は文武両道であったとも言えるでしょう。

晩年の結城秀康は梅毒を患い鼻が欠けていたともされ、病が重くなると3月1日に越前へ帰国。
そして、1607年閏4月8日に死去しました。享年34。


スポンサーリンク



実父よりも義父よりも早すぎる死でした。
この直前には弟・松平忠吉も逝去していることから、2代将軍・徳川秀忠の陰謀説もあります。

福井藩75万石は、嫡男の松平忠直(まつだいら-ただなお)が継いでいます。
この松平忠直の部隊は、1615年の大阪冬の陣にて、真田幸村を討ち取っています。

なお、松平家を称するようになったのは、結城秀康の遺言とされています。
この改姓に驚いたのは隠居していた結城晴朝です。
結城晴朝は徳川家康に懇願し、結城秀康の5男・結城直基を養育し、5000石ながら鎌倉時代から続く結城家を継がせました。
この結城直基は、のち山形城主15万石となり、姫路城へ国替えとなった際に、姫路に赴く途中死去しています。

結城秀康とは~文武両道の福井城主も若すぎる死を遂げる
結城秀康 なぜ2代将軍になれなかった?
お万(永見貞英の娘・長勝院)をわかりやすく2分で解説【どうする家康】結城秀康の母
徳川秀忠~徳川幕府第2代将軍~凡庸ではなかった武勇ある実直な武将
筑波・小田城と小田氏治の頑張り~8回も奪還を試みた小田城は防御は弱かった?
福井城(結城氏北ノ庄城)~今も福井の拠点となる立派な城構え
松平直基~書写山と最乗寺にある松平直基の墓所
佐竹義宣 なんとか戦国時代を乗り切った律義者の世渡り
本多富正 江戸時代初期における福井藩の家老
松平忠直とは~真田幸村を討ち取るも大分に謹慎となったその理由は?

コメント

  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。