家臣の造反に悩まされた名将・上杉謙信から見る当時の大名と家臣団の関係性

上杉家の家臣

 筆者は上杉謙信(1530~1578)という戦国武将が好きであります。織田信長、豊臣秀吉・秀長兄弟、徳川家康武田信玄・信繫兄弟、北条氏康毛利元就小早川隆景、黒田如水、真田信幸藤堂高虎島津義久・義弘兄弟といった戦国期を代表する英雄たちも各々素晴らしい個性(勿論、各々短所もあります)があり好きなのですが、その中でも謙信は、筆者が少年の頃より特に好きな武将の1人であります。
 謙信という武将が好きになった切っ掛けは、月並みではありますが、川中島の合戦での伝説の一騎打ち等がある如く勇猛で合戦に強い名将であるのに、領土拡張への欲を持たず、信義を重んじ、「弱を扶け強を挫く」という義侠心に溢れる武将像に、少年の自分が強く惹かれたからであります。
 謙信を初めて知ったのは、確か小学校中学年の時に放送されていたNHK大河ドラマ『武田信玄』(1988/昭和63年、原作:新田次郎先生、脚本:田向正健先生)で、中井貴一さん演じる名将・信玄(晴信)の宿敵の1人として登場する長尾景虎(謙信、演:柴田恭兵さん)を観たことであります。
 その折の筆者は大河ドラマ、ひいては歴史には全くと言っていいほど興味なく、父親が観ていた同ドラマをただ何となく時々、一緒に観ていたことを覚えています。


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 そんなある日に、最大の見せ場である第4回川中島の戦い(八幡原の戦い)を取り扱った「川中島血戦(二)」(第28回)の「信玄vs謙信の一騎打ち、三大刀七大刀シーン」が放送されており、弟・信繁をはじめ多くの配下武将を血戦で失った報告を受けて、冷静な面立ちをしつつも哀愁漂う雰囲気を出すことを禁じ得ない信玄。
 その直後に、単騎、馬を疾駆して大刀で斬り掛かって来る敵・総大将・謙信(政虎)を、持っている軍配で応戦する信玄、そして、互いに鋭い視線を交わす信玄と謙信。最後に大刀を振りかざし「うぉぉぉー!」と大声で叫び馬を駆って去ってゆく謙信、その後姿を(どことなく哀愁の目付きで)見つめる信玄。
 当時、どうしようもない愚劣小僧であった(現在でもその気分を濃厚に持っている)筆者が、上記の一騎打ちシーンを観て、謙信の恐ろしいほどの雄姿~勿論、謙信役の柴田さん、信玄役の中井さんの迫真の演技力も大きいですが~に惹かれたことを覚えています。一言で述べさせて頂くと『謙信=神懸かり的な武人』というのが、謙信に対する筆者の第一印象でございました。
 その2年後に上映された角川春樹氏が監督(脚本・製作も兼任)された超大作映画『天と地と』(1990年6月公開、原作:海音寺潮五郎先生)があります。この作品の良し悪しは2つに割れることが多いですが、筆者はこの映画は好きであり、これを通じて謙信や川中島の戦いなどに強く興味を抱く切っ掛けになり、謙信の居城であった春日山城址と菩提寺・林泉寺、川中島古戦場などを両親に連れて行ってもらい興奮したことを今でも覚えています。
 やはり映画『天と地と』でも、川中島での謙信(演:榎木孝明さん)vs信玄(演:津川雅彦さん)の一騎打ちシーン(ただ両者とも馬上一騎打ち)が最後にあり劇中の見せ場の1つになっているのですが、当時の筆者が感じたことは、『謙信(景虎)は、よく自分の臣下に裏切れて可哀そうだな』ということでした。因みに、大河ドラマでも家臣団の不和や謀反に苦悩させられる景虎が描かれていますが、この描写があるのを筆者が知ったのは後年(成人)になって、再放送や動画配信を観た時でありますので、謙信が家臣の造反に苦悩させらていたのは、映画を観てようやく知りました。
 劇中では、策謀家である信玄の巧みな調略によって、父・為景の代からの譜代家臣・「昭田常陸介(演:伊武雅刀さん)」に裏切られたのを皮切りに、次いでやはり譜代家臣である「大熊朝秀(演:成瀬正孝さん)」に謀反を起こされ、挙句の果てに、景虎の育て親であり軍師でもある「宇佐美定行(演:渡瀬恒彦さん)」にも造反されて、止む無く景虎が定行を討ち取るという、哀しいほどに謙信は配下家臣団(譜代家臣)に裏切られ続けている場面が多々ありました。
 あくまでも角川監督が、原作である歴史小説をベースに更に創作を加えた内容となっておりますので、昭田は架空の登場人物(多分モデルは、黒田秀忠)であり、また宇佐美定行も後世の軍記物語(北越軍記など)で誕生した武将であるので、両者とも景虎に謀反を起こしたのは勿論フィクションであります。しかしながら、大熊朝秀には宿敵・武田氏に通じられて謀反を起こされているのは紛れもない事実であり、大熊以外も越後国内の有力家臣団、即ち、謙信と同郷である「譜代家臣的存在」の造反が目立っています。


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 余談ですが、謙信の強敵の1人である織田信長も配下家臣団に造反されたことが多いのは有名であります。信長は最終的に2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公として更に脚光を浴びている明智光秀の謀反・本能寺の変で生涯を終えていますが、信長の場合ですと、謙信とは違って、信長と同郷である尾張譜代衆が主君である信長に対して造反しておらず(家督相続時は除く)、寧ろ、本能寺の光秀をはじめ荒木村重別所長治松永久秀など所謂、信長に仕えて年月が浅い外様衆の謀反や裏切りが目立ってます。
 謙信・信長共に、独断専行タイプの総大将/御舘様であることは有名でありますが、信長に比べ最も信頼置け、自軍団の中核を担うはずの同郷武士団の多くに造反され、それに苦悩され続け、挙句の果てに一時逐電(職務放棄)した謙信に対して同情を抱くのですが、また同時に『謙信自身の性格および政治思考の拙さによって招いてしまったのが大きなな原因』であったことも筆者は感じていることも確かであり、これが足枷となり(他にも「父兄以来続く国内情勢の不安定さ」・「地理的理由」などもありますが)、当時、信玄と双璧を成す天下の名将、「毘沙門天の化身」と畏敬されながらも最終的に天下に覇を唱えることが出来なかった謙信に対しては、1人の謙信ファンとして「何しているですか!?謙信公」と誠に残念な気持ちを持ってしまうことも禁じ得ないのであります。
 謙信が多くの家臣団の造反に遭ってしまったことは、時代的風潮、即ち家臣(小領主/国人衆)層が独立心が強く、主人である大名を裏切ることは日常的であり、決して統率者である謙信1人の全責任ではない部分もありますが、それにしても謙信の場合は、他の戦国大名に比べるとやはり家臣の造反ケースが多いのであります。
 「父兄以来続く国内情勢の不安定さ」・「自身の性格および政治思考の拙さ」によって、謙信は譜代/同郷家臣の造反を招いてしまったことを前述させて頂きましたが、謙信の性格や政治思考の詳細をこれから記述させて頂き、謙信が苦悩した家臣団の造反についても紹介させて頂きたいと思います。
 
 謙信(旧名:長尾景虎)の出自である(府中)長尾氏は代々、越後国内の武士団の棟梁である守護大名・上杉氏を補佐する守護代(サブリーダー)でしたが、謙信の父である猛将・長尾為景の代になると、主家である上杉氏を圧倒する勢力、つまり戦国大名としての越後長尾(上杉)氏の礎を築き上げましたが、国内の親・上杉/反・為景(府中長尾)派の「長尾一門(上田長尾など)」および「有力国人衆(揚北衆など)」からの反発は凄まじく、為景はその敵対勢力の対処に苦慮し、生涯を終えています。
 為景の嫡男である晴景(謙信の長兄)が守護代を継ぎますが、晴景も父と同様、越後国内の「反対勢力(三条長尾氏など)」の内乱に悩まされ、当時仏門に入っていた末弟・謙信を武将として呼び戻し、内戦に参戦させています。
 当時、未だ10代後半の青武将であった謙信でしたが、内乱鎮定に大活躍、既に後に名将と謳われる大器の片鱗を見せています。これにより親守護代派の一門(栖吉長尾氏など)や「有力国人衆(直江氏、柿崎氏、大熊氏、栃尾本庄氏、中条氏など)」は、病弱である晴景に代わり、謙信が守護代になることに期待を寄せるようになり、当時の越後守護大名・上杉定美の周旋によって、晴景は隠居し、謙信(当時19歳)が越後守護代となりました。
 
 以上のように、為景・晴景、そして謙信の長尾氏は、飽くまでも越後守護代(No.2)の地位である成り上がり家系であるがゆえ、国内の一門・国人衆から造反され易い情勢の不安定さが宿痾(しゅくあ)となっており、後に信長も畏怖せしめた戦国大名・越後上杉氏は、『謙信を絶対的な頂点とした強権的大名ではなかった』ことを意味しています。
 本来、戦国大名とその家臣団(国人衆)の主従関係というのは、一言で述べるのならば『緩い主従関係』であり、江戸幕藩体制期の大名に仕えている武士のような忠義一途・滅私奉公といった武士道を象徴するような関係では決してありませんでした。
 駿河台大学法学部教授であり歴史学者であられる黒田基樹先生(NHK大河ドラマ「真田丸」の時代考証をご担当)の著作『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書)には戦国大名と国人衆(家臣団)の関係を以下の通り書かれてあります。

⓵『戦国大名と国衆とは、社会的には対等の存在ではなかった。たいてい、国衆は戦国大名に従属する関係にあったが、その領国の支配は、あくまでも国衆が独自に行っていた。そうした戦国大名と国衆との関係は、上下関係にある同盟関係のようなものであった。現代に照らせば、アメリカと日本の関係のようなものを思い浮かべればよいであろう。』(「戦国大名・国衆という地域国家」文中より)

⓶『両者(筆者注:戦国大名と国衆)の関係は、ギブ・アンド・テイクの双務契約関係であった。(中略)、(国衆は)充分な保護を(大名から)受けられなければ、家中の構成者は容易に主家を見限った。とくに一門・宿老など有能なものは、他の戦国大名などから引く手数多の状態で、再就職先には事欠かなかった。「葉隠」に代表される、滅私奉公のような武士道が生まれるのは、社会が平和になり、さらに大名の改易が少なくなって、再就職が難しくなった状況からであった。』(「家中という家来組織」文中より)

 上記のように、戦国大名とその家臣団で構成されている組織(家中)は、領主と領主の寄り合い所帯で構成されている「国人連合勢力」のような存在であり、謙信の越後上杉氏も勿論その例外ではなく、宿敵のである甲斐の武田信玄や中国地方の毛利元就も同様であります。
 黒田先生も仰られているように、組織の長である大名が配下の国人衆の利益や地位を保証することをできなければ、国人衆は躊躇なく敵や他勢力に寝返りました。余談ですが、その家臣団側の中で最も典型的かつ大成功した例が、仕える大名を何度も変え遂には伊勢津藩の太守となった藤堂高虎となるでしょう。


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 信玄や元就の場合も、一門や国人衆の扱いには相当神経を遣い苦労していましたが、謙信のように有力国人である譜代衆に裏切られるという政治的ミスはあまり犯しておらず、家臣団を上手く纏めています。その理由として考えられるのは、信玄や元就たちは配下の国人衆たちの地位や財産をしっかりと保証するだけの政治能力と求心力があったということになります。
 一方の謙信は、先述の「大熊朝秀」を含め「北条高広(丹後守)」、「本庄繁長」といった越後国内有数の国人衆から造反されているのですが、北条高広の場合は2度も裏切られており、(謙信好きの1人の筆者としてとても残念ですが)、宿敵の信玄に比べると政治能力は決して高いとは言い難いのが事実であります。
 
 東京大学史料編纂所の教授であり、テレビ番組内で、東進ハイスクールのカリスマ講師・林修先生との愉快な遣り取りで話題になった本郷和人先生の著作の1つに『真説 戦国武将の素顔』(宝島社新書)というのがございます。既にお読みになった方もいらっしゃると思いますが、この内容が凄いのであります。
 信長や秀吉、信玄、伊達政宗、島津四兄弟など当時を代表する大物たちを「こき下ろす」内容となっている凄まじい名著となっており、林修先生との遣り取りで研ぎ澄まされた?「本郷節」が各所に炸裂しているのでありますが、その標的は勿論、名将と謳われる謙信にも容赦なく向けられており、「後継者選びでの失策(御館の乱)」「成果なしの関東遠征」などを含め謙信の政治・領国統治能力や戦略眼の無さ、そして『家臣団を纏める大名(リーダー)としての性格の拙さ』を鋭く指摘しております。その例を以下に挙げさせて頂くと、

 『永禄3(1560)年から、約1年の間に謙信は関東に兵を送り、小田原城を包囲したのですが、結局なにも得るものなく帰国します。(中略)領地はひとつも増えていないのです。でもこれって、無能だっただけかもしれない。(中略)侵略しても領地を治めることに関してただの下手だったと考えているわけです。なにせ越後国すらまとめることもできなかったのですから。』(「謙信に名のある家来がいないのはなぜか」文中より)

 謙信が、当時凋落していた関東管領上杉憲政から上杉の姓と役職を継ぎ「上杉政虎」と改名、この後に、幾度も本拠地・越後(上越)から越後武士団を率い、三国峠などの大山塊を越えて、関東へ出兵するのは川中島合戦と並んで謙信の武勇伝として有名でありますが、上野国(群馬県)など北関東のごく一部を仮初めに占領できた戦果しか挙げることしかできておりません。正に「成果なき大遠征」「持ち出しのみの駆け引き」であります。
 これでは謙信に従って遠く越後から関東へ出陣してきている越後の国人衆たちにとっては、相当な経済的負担を被っていることは想像に難くありません。彼からしてみれば、(現代風に譬えると)謙信によって殆ど「無報酬労働」、即ちタダ働きさせられていることになります。これでは現在も問題になっているブラック上司の一面を覗かせている名将・謙信公であります。
 前述の黒田先生が仰っておられる『戦国大名と国衆の関係は飽くまでもギブ・アンド・テイク、双務契約関係である』という当時の戦国期武士団の常識というべき約束事を大名である謙信が果たしていないということになってしまいます。
 配下国人衆の利益や地位を保証してやることを第一義務としなければいけない大名の謙信が、自身や一族の命を賭して軍役(合戦)などで奉公してくれる国人衆に対して、利益還元せずに極度な経済的負担を強いている有様であります。そして自分だけが足利将軍家の外戚である名門・上杉の名跡と関東管領の要職を貰い、後北条氏の圧迫を受けている関東の諸将から救世主として尊敬されて気分良くなってしまっている。これでは謙信配下の国人衆も主君である謙信に対して嫌気が指して、「造反しようかな」と考えてしまうのも無理がありません。その結果が、謙信の譜代家臣的存在である大熊朝秀や北条高広の謀反であります。本郷先生は、謙信配下武将の裏切りについても以下のように言及されておられます。

 『北条高広という武将には、上野国、現在の群馬県を任せていました。(中略)「頑張って。どうにか任せたよ」といっているそばから、高広に裏切れるわけです。しかも2度も。』
 『でも謙信は裏切られても、またすぐに許してしまう。やはり許さざるを得ないのでしょう。上杉家には「それほど人材がいないのか?」、それとも「謙信に人間的な魅力がないから、すぐに裏切られてしまうのか?」、その辺りをどのように捉えればいいのかわかりませんが、非常によろしくないですよね。』
 『まず、何度も裏切られること自体が変ですし、裏切った者に対して厳しい態度が取れていない。すると、裏切り得となり、「じゃ裏切るか」とホイホイ裏切ってしまいます。』
 『大熊朝秀も父・政秀の代から上杉家に仕える重臣で、長尾景虎(謙信)を擁立したひとりで、そのため謙信も重用していたのですが、朝秀は謙信の最大のライバル信玄に寝返ってしまうのです。』

 『謙信がすぐに裏切られるのは、政治的手腕というのがなかったせいかもしれません。家来としては、主人が”義の武将”と呼ばれたとしても、領土欲を持たないのではなんのために戦うのかがわからない。』
 『主人がひとりで粋がり”義の武将”と呼ばれていいかもしれないですが、独りよがりではダメなのです。家来たちにも自分と同じ夢を共有させることができないのなら、リーダーとして失格でしょう。乱世で生き残ることを考えたときに、誰もついてこなくなります。』

(以上、「独りよがりな”義の武将”」文中より)


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 確かに小説・ドラマなどの創作世界での謙信、例えばNHK大河ドラマ「武田信玄」「風林火山」の謙信は極度と言っていいほどの理想主義者であり、重臣である大熊朝秀と本庄慶秀などの領地争い(内部抗争)について対策を練るどころか、「何故そんな小さな領地を巡って争い合うのだ」「何故皆強欲なのだ」と嘆き苦悩し、毘沙門堂に引き籠り状態になり、挙句の果てに全てに嫌気を指して紀州高野山に逐電してしまう、という高潔すぎる人格、即ち本郷先生が言われるように「独りよがりな武将」として描かれることが多いです。
 上記は飽くまで創作の謙信像ではありますが、実際に北条高広や大熊などに造反されてしまっているので、大河ドラマでの決して荒唐無稽なイメージではないと思います。家臣団からしてみれば、「お前たちは領地争いばかりする強欲な奴らだ」と嘆くばかりか、自分自身や一族郎党の生活利権を護るという職務を放棄してしまう大名なんかに従っていられるか、という不満を抱いてしまいます。
 反面、武田信玄は謙信と違い大名としての責務を忠実かつ堅実に行い、「甲斐国(山梨県)とその家臣・領民を少しでも富ませる」という大方針の下、信濃国(長野県)などの経略、武田軍に従った家臣・国人衆には、切り取った領地を恩賞として与えることで、武田家臣団の忠誠心を掴むことに成功しており、戦国最強・武田軍を築き上げています。
 勿論、信玄の並外れた器量、軍略の高さも最強軍を創り上げた要因となっているのですが、それよりも信玄が常に苦心惨憺して支配領域を確実に拡大してゆき、配下の家臣や国人衆の利益や地位を保証するという大名としての『双務契約』を遵守したことが、天下随一の武田氏が完成した一番の理由となっています。
 謙信が、持ち出しのみの遠征である関東出兵を控えるようになり、堅実に領土拡大するために隣国の越中国(富山県)など北陸地方の経略に乗り出すのは、1570年以降、謙信が晩年期に差し掛かる頃であります。北陸の各国で切り取った領地を配下の家臣団に分け与えることで、彼らの忠誠心が高まり、家臣団の造反も見られなくなりました。続いて、謙信は能登国・加賀国(ともに石川県)の大半へと領国拡大に成功し、1577年には、天下の覇者の地位を築きつつある織田信長の大軍(大将は柴田勝家)を加賀の手取川で大いに打ち破り、更に勇躍する矢先の1578年、謙信は越後春日山城で脳溢血のために急逝してしまいます。享年49歳。
 謙信は自分の後継者を生前に決定せずに急死したので、謙信の2人の養子であった「景勝(謙信の姉・仙桃院の次男)」と「景虎(北条氏康の七男、景勝の姉が正室)」との対立が発端となり、上杉氏全体を巻き込む大抗争『御館の乱』が勃発します。2年後(1580年)に景勝側が漸く内乱に勝利しますが、その時には既に謙信以来の強豪・上杉氏の勢力はすっかり減退してしまっており、この時すでに天下の覇者となっていた織田信長の猛攻に晒されることになってゆくのであります。

 筆者が映画「天と地と」などを真剣に観ていた無知な少年期は、謙信が多くの家臣達に裏切られて可哀想、家臣達はリーダーである謙信を裏切るなんて酷い奴らだ、と思ってしまっていましたが、それは江戸期における儒教思想の浸透社会を通じで、現代日本を生きる筆者を含める「他人を裏切るのは善くないことだ」という常識を身に付けた人々が戦国期の常識(大名と家臣の双務契約)を偏見しているのであります。
 やはり自分の家臣団に造反されてしまう主な原因は、謙信にあったのであり、謙信が成果なき合戦を半生繰り返し、自分の家臣団の利益などを尊重せずに負荷ばかり与えるという、『大名としての職務放棄』および『双務契約違反』を犯し続けたことにより、自分の求心力を失ったということであります。正に因果応報、身から出た錆でございます。
 『自分の生活保障してくれない大名は容赦なく見限ります』それが戦国大名と家臣団の関係であり、それが常識であったのです。


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 思っても仕方がないことですが、謙信がもう少し早く戦略を切り替え、信玄のように家臣団の統制に心を砕いていたのらば、上杉は天下の覇者までなったとは言い難いですが、少なくとも謙信死後の「御館の乱」のような大内乱で勢力が著しく衰退し、信長によって滅亡させられる寸前まで追い込まれることはなかったと思います。
 この一事を考える度に、謙信好きである筆者は、謙信死後の上杉氏の転落ぶりは誠に残念になって仕方がないのであります。

(寄稿)鶏肋太郎

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