「土木建築」を戦略・戦術(合戦)の主力に据えた織田信長

土木建築




 皆様「合戦」という言葉を聞くと、戦場で武士や足軽などの戦闘員が甲冑(具足)に身を固め、軍馬に跨って槍・刀剣・弓を巧みに操り、敵味方両軍が入り混じって戦うイメージを思い浮かべる事が多いと思います。
 武力を生業とする「武士」という階級が本格的に興り、隆盛を誇った平安末期~室町中期は、騎馬武者vs騎馬武者の一騎打ちが合戦の主流となっていたために、武士は馬術と弓術、即ち「弓馬の道」が第一に必要な戦闘技術とされていましたが、室町中期における全国を巻き込む動乱期(応仁の乱、嘉吉の変など)が始まると、幕府や守護大名に仕えるエリート武士やその一族郎党たちが合戦で走り回ることに加え、武士よりも遥かに機動力(奇襲攻撃力)が優れた新たな戦闘集団「足軽」という傭兵が登場すようなり、戦国期になると鎌倉期以来の戦闘方法「一騎打ち」は徐々に鳴りを潜め、合戦の主流は足軽/雑兵を主力とした集団戦術へと変革してゆきました


 室町期~戦国期にかけて合戦内容が個人戦から集団戦に切り替わってゆくことで、当期の武士たちは、鎌倉武士の代表格である畠山重忠和田義盛のように個人的武勇や騎射術のみに優れているのみでは戦乱を渡ってゆくことは不可能となり、今度は如何にして、寄せ集めた多くの足軽・雑兵を「軍勢(備)」として取り纏め、己の手足の如く動かせる統率力や戦術に優れた武将が必要となってきました。軍勢を動かす統率力および戦術に優れた名将の好例は、戦国初期では足軽兵を集団で運用する草分的存在である太田道灌(資長)、伊勢宗瑞(北条早雲)、毛利元就、最盛期には武田信玄上杉謙信、後期には真田昌幸立花宗茂島津家久などが挙げられると思います。この戦国期の合戦こそ、冒頭で記述させて頂いた多くの将兵が槍や刀を携えて戦場を駆け回っている様相であります。しかし、戦国中期になると集団白兵戦がより変貌することになりました。その最大転換点となったのが「鉄砲伝来」(1542年)であります。
 故・堺屋太一先生は、『戦国期は日本のルネサンス期でもある』とNHK歴史番組「その時歴史が動いた」にご出演されて時に仰っておられましたが、薩摩国種子島に海外から伝わった鉄砲の登場も戦国変革期を象徴する巨大インパクトであることは間違いありません。
 鉄砲が伝来したことによって合戦の様相が一変しました。それまで槍や刀で直接的に死闘を演じていた武士たちでしたが、鉄砲という長距離から相手を一撃で仕留めるという最新鋭兵器が出現したことにより、集団的白兵戦に加え、間接攻撃も合戦の主流になってゆくようになります。
 思ってみるに鉄砲伝来は合戦内容を一変させたのみに留まらず、日本戦国史の経済や物流にも多大な影響を与えました。鉄砲伝来直後に、鉄砲国産化が成功したことにより、螺子(ネジ)の開発されるなど国内の工業技術が飛躍的に向上し、また鉄砲弾薬(火薬)の原料となる中国大陸産の「硝石」をはじめ様々な物資・人・思想(南蛮文化)が和泉国堺(大阪府堺市)など貿易港を通じて大量に輸入、海外貿易が最盛期を迎え、その海外の物資を購入するために必要な現金、即ち全国各地の金銀が産出される鉱山開発が活発になることにより、物流経済が大いに発展してゆきました。
 


 上記の戦国ルネサンスの風潮の真っ只中で、人生で最も多感で物事を抵抗なく吸収しやすい少年・青年期を送り、鉄砲・弾薬の運用および調達、貿易・物流経済の優れた感覚を身に付けたのが、『織田信長(1534~1582)』、その家臣から身を興して天下人となった『豊臣秀吉(1537~1598)』であります。
 信長が優れた経済感覚を以って関所撤廃や楽市楽座などの政策を大々的に実施したことで絶大な経済力を蓄え、兵農分離・鉄砲弾薬の大量保持などの軍事改革を敢行したことは学校の歴史授業で習うほどに有名であります。
 信長が他の戦国大名に比べ大量の鉄砲(それに必要な火薬も含む)を織田軍に導入することにより、天下の覇者の地位まで昇り詰めた要因の1つとなっていますが、それ以外にも信長が軍事面や政治面で導入した戦法があります。それが普請/作事、所謂『土木建築』であります。
 信長や秀吉は、莫大な経済力を背景にして安土城や大坂城・伏見城など天下一の大城郭とそれに連なる経済都市(城下町)を建造し、土木建築を武器として己の権勢を全国に政治的アピールしたことは有名でありますが、合戦面でも土木建築を大いに活かし、強敵たちを打倒しています。
 信長青年期における最大の敵勢力は、駿河国(静岡県東部)の戦国大名・今川義元であり、劣勢の信長が義元率いる大軍を桶狭間の戦い(1560年)にて撃破したことはあまりにも有名でありますが、元来、桶狭間の勃発の主因は、当時陶工業(常滑焼)が非常に盛んであった『知多半島の領有権』を巡って信長と義元が直接対決したことが発端となっています。
 その半島付根部分には、大高城や鳴海城といった今川方の城砦が最前線基地として存在していました。その対策として信長は「丸根砦」「鷲津砦」「善正寺砦」を築城することにより、大高・鳴海の両城~(今川の勢力圏である)駿河・遠江国(静岡県西部)の通路を分断し、両城の動きを牽制しています。そして、義元は尾張攻略の橋頭堡たる大高・鳴海の城を救援するために大軍を率いて尾張へ侵攻してきたというのが、「桶狭間の戦い」であります。桶狭間の戦いの経緯ついての詳細は、また機会があれば別記事で紹介させて頂きたいと思っております。
 信長は今川戦線で、敵城の動きを封じるために新たに砦などを築くという所謂「付城戦略」を採用したのでありますが、付城戦略は何も信長独自が編出した戦い方ではなく、上杉謙信と武田信玄が、信濃国内一生産力豊かな善光寺平(長野市一帯)の領有を巡って13年間の長い間争ったとされる有名な川中島合戦も、上杉・武田の両陣営が善光寺平を中心とする北信濃に小さな城砦を碁石のように置き合い、互いの城砦を牽制する囲碁戦のように付城戦略が盛んに展開されたのであります。
 ただ信長の付城というか、土木建築戦略というのは当時を代表する名将・謙信と信玄の両雄より規模が遥かに大きく、ダイナミックに展開しているのであります。
 桶狭間以後、父・信秀以来の宿願である美濃国(岐阜県南部/美濃地方)攻略を本格化させるために、信長はそれまの本拠地であった清洲城を棄て、それよりも北方に位置する小牧の地(愛知県小牧市)に新たな城、しかも当時ではかなり珍しい総石垣の本格的な城・小牧山城と城下町も町割して新・本拠地として定めました。本拠地を移転させ新たに城郭と配下武士団を集住させる城下町を築くという一大土木事業を敢行したこと事体が、既に信長の土木建築が桁外れに大きかったことを象徴しています。
 前述のように、小牧山城は総石垣で守りを固められた近代的城郭の嚆矢的存在であり、信長は従来の築城よりも労力および財力を消費する石垣造りの城郭を美濃国境に近い小牧山に築くことで、敵方の美濃斎藤氏およびその配下の国人衆などに織田氏と尾張の経済力の強固さを誇示して、斎藤方の東美濃国人衆を牽制しています。つまり信長は城を築くという土木建築で敵方を圧倒しているのであります。
 他にも、当時信長の若手将校の1人であった秀吉(木下藤吉郎)が、現場監督者として長良川西岸の墨俣(岐阜県大垣市墨俣)、正しく織田軍の橋頭堡として墨俣城を短期間で築き上げていますが~(秀吉の英雄譚の一つである有名な「墨俣一夜城」)~、これも元々は主君である信長が立案した土木作戦であり、信長がその作戦を用いて敵方に楔(くさび)を打ち込んだのであります。
 因みに、この信長の大規模な土木建築戦略は、信長が数多の強敵を撃破し、自己勢力が拡大した後にも敢行されており、その最たる好例が、水陸交通の要衝である近江国(滋賀県)に築城した安土城と言えるでしょう。近世大城郭の嚆矢とされる豪華絢爛かつ荘厳な安土城を築くことによって、天下の覇者・信長の権威と経済力を誇示し、天下の人々を圧倒したのであります。



 
 信長の土木建築による戦い方はまだあります。1570年からの3年間、信長がかつての盟友であり妹婿でもあった北近江国(滋賀県北部)の浅井長政を攻略する際にも、長政の本拠である堅城・小谷城(長浜市湖北町)を無理に攻略せずに、同城の南方7km離れた横山城を整備し、ここを対浅井戦の最前線基地としています。そしてこの横山城の城将が秀吉、その寄騎であった竹中重治(半兵衛)たちであり、秀吉は横山を防衛しつつ、浅井方の国人衆や城主、佐和山城の磯部氏・宮部城の宮部氏・山本山城の阿閉氏などを織田方に寝返らせて、小谷城の浅井氏を孤立化させる大活躍をしています。
 信長および秀吉は、敵方へ侵攻する際、土木建築で自軍の前線基地(城砦、橋頭堡)を合戦目的のみで構築するばかりでなく、その基地を諜報よび外交機関としても活かしていたことに両英傑の凄さがあります。

 信長は自軍に鉄砲隊を大々的に配備して敵勢力を圧倒していったのも有名でありますが、その最新鋭兵器・鉄砲と土木建築をフル活用して快勝した合戦が、信長の盟友・徳川家康と共闘した甲斐武田軍との『長篠設楽原の戦い(1575年)であります。
 本戦では、信長が3千の足軽鉄砲隊を3隊(1部隊=1000人)に分け、交替射撃(有名な「三段撃ち」)させることによって、武田勝頼率いる武田軍を完膚なきまでに撃破したことのみが強調され、信長大勝利の要因として独り歩きした赴きが強かったですが、実は、鉄砲の大量活用(詳細の数値は不明)の他に、信長が武田軍に対して採った作戦が、やはり「土木」であります。
 信長軍が、当時最強軍として名高い武田軍との槍や刀での肉弾戦を忌避し、長蛇の「馬防柵」を設置して鉄砲による間接的攻撃に終始したことは「長篠合戦図屏風」などで有名であります。しかし、実際は馬防柵のみの簡易的な陣地ではなく、織田・徳川連合軍の本陣であった弾正山(丘陵)を全体的に山城のように変形させるほどの土木工事を行っています。即ち『陣城戦術』、現在の軍事工学で言うところの『野戦築城』であります。
 信長は設楽原台地のほぼ中央を流れる連吾川を水堀として見立て、弾正山(本陣)の斜面を削って人工的に急斜面とし、更に山の周囲には空濠も開削、それから出た土で土塁を構築するという徹底した土木工事を施し、武田軍の決戦に備えています。要するに信長は、野戦での最強軍である武田軍と野戦で雌雄を決するのではなく、急造した山城に籠って『籠城戦で武田軍を葬る』という作戦を実行したのであります。籠城戦になれば、どの兵器が一番有効であるか?それは信長軍が握っていた当時最新鋭の武器であった鉄砲であります。堅固な陣城に籠って、武田軍が槍や刀で此方と直接的に交わる以前に、鉄砲によるアウトレイジ攻撃で武田軍を迎撃したのであります。
 


 『信長軍は、柵に囲まれた牧場の中にすっぽりと入り込んだような形なった。』

 という上記の意味合いの文章は、確か司馬遼太郎先生の歴史小説の1つである後に土佐藩初代藩主になる山内一豊とその妻・千代を主人公にした物語『功名が辻』(文藝春秋社)の文中であったと、筆者は曖昧に記憶しているのですが、何れにしても上記の一文は設楽原における信長軍の陣立て(籠城)の正鵠を射たものであると強く思います。
 周知の通り、元来、籠城戦というのは古今東西問わず、彼我の兵力を比較して味方の兵力が敵に比べ遥かに劣っている場合に採用される戦術であるのですが、設楽原合戦の場合は、武田勝頼は総勢1万5千であるのに対して、信長および家康が握っている兵力は「3万8千(信長軍:3万、家康軍:8千)」という武田軍のほぼ3倍以上の大軍であるにも関わらず、先述のように信長は、白兵戦では越後の上杉謙信軍と並んで無類の強さを誇った武田軍との肉弾戦を徹底的に避けるように、本陣の山を堅固な山城の如きに大工事を施し、鉄砲を持ってそこに籠ってしまったのであります。
 
 『御身方一人も破損ぜず、候様に御賢意を加へらる』(信長公は、味方を一人も殺さずに賢意(様々な工夫)をされた)

上記は信長の一代記を記した『信長公記』(第8巻)からの文中にある一文でありますが、その賢意というのが鉄砲射撃であり、陣城戦法であったのです。

 武田軍に比べ、圧倒的に兵力優勢であった信長が陣城に籠って戦うというのは、信長自身やその将兵たちは、名将・信玄が生涯苦労して創り上げた武田軍が怖かったのか?筆者はその通りだと思っています。
 筆者が別記事でも何度か紹介させて頂いております竹村公太郎先生の名著『日本史の謎は「地形」で解ける【文明・文化編】』(PHP文庫)で、先生は信長が何故、設楽原で陣城(馬防柵)戦術によって武田軍と戦うことを考えついた理由を詳しく考察されておられます。そのキーワードは『信長が持つ臆病さ』、そこから生まれる『弱者としての知恵』の2つであります。その『詳細』を以下の通り詳しく紹介させて頂きますと、

 『織田軍は異常な熱意で馬防柵を築いていった。延長は3kmにおよび、さらにその柵もご丁寧に三重とした。(中略)信長軍は柵の中から武田騎馬軍の馬を狙い撃ちし、転倒した馬の武将に銃弾を雨のように浴びせた。(中略)武田軍の武将たちは勇猛果敢に突撃し鉄砲隊の餌食になり、織田軍の武将たちは後方に引っ込んだまま出てこない。』
 
 『相撲に例えると、武田軍は裸になり土俵に上がった。ところが、相手の織田軍は裸にならず土俵にも上げってこない。土俵の下で鎧を付けたまま、急に鉄砲を撃ちまくる。裸の武田軍は土俵の上でバタバタ倒れていく。戦いというより戦いの暗黙の約束事を無視した虐殺であった。』

 『戦場の虐殺の現場には共通した空気が流れている。それは恐怖である。虐殺される側の恐怖ではない。虐殺する側が恐怖に支配されているのである。この長篠の戦いの虐殺劇を見ていると、信長軍の恐怖が見えてくる。』

 『(筆者注:武田軍という強敵に対して)恐怖にとりつかれた弱者たちが勝つにはどうすればよいのか?様式に囚われない、手段も問わない、卑怯といわれてもいい、ともかく勝つ戦術は何か?を信長は考え抜いた。そして生まれたのが、馬防柵に隠れて鉄砲を撃ちまくる戦法であった。』

 『長篠の戦いは恐怖にかられた弱者の戦い、卑怯者の戦いであった。』

(以上、「第11章 信長が天下統一目前までいけた本当の理由とは何か」文中より)


 よく言えば極めて合理的な戦い方であり、徹底的な合理主義者である信長らしい戦い方でありますが、一方では竹村先生が仰っておられるように、信長はそれまでの合戦の主流であった「⓵遠距離射撃(弓合わせ)のち⓶肉弾戦(槍合わせ)」の順番を完全に無視し、終始一貫、堅固の陣城に籠ったまま⓵の遠距離射撃のみで武田軍を撃った戦い方をしたのであります。
 合戦の主流に則って横綱級の強さ(天下一)を誇った武田軍からしてみれば、信長のやり方は正に『卑怯』に映ったに違いありませんが、天才・信長の本当の凄まじさは、その『卑怯』『弱者』『臆病』に徹底した態度であります正に彼我の強弱を『忖度』することを怠らないのであります。

 『本当の知恵者というのは臆病者と紙一重』である。という意味合いの文を司馬遼太郎先生はご自分の作品の中でよく書いておられます。強い敵を圧倒するための軍事力を手にいれるために、初めに「経済を富ませる」、その経済力を以って「多くの足軽を雇い鉄砲と弾薬を大量に買う」、それでも敵が怖いから「陣城というセフティーゾーンを造って、その中から鉄砲で向かって来る敵を撃つ」という信長が本来持っている慎重さ/臆病さで、最強・武田軍を含める多くの強敵を葬り去ったのであります。
 『柔よく剛を制す』というよく聞く格言は、中国古代思想の老子の一説が出典となっていますが、柔の存在である信長が、剛という武田を長篠にて撃破できたのは、信長が持っていた臆病さ(忖度する心)、経済力、鉄砲、そして陣城という土木建築を活用したからであります。


 以上のように、信長が武田氏との一大決戦「長篠設楽原の戦い」で、鉄砲・陣城という兵器火力と土木建築の力を活かしたことを記述させて頂きましたが、実は当時から遥かな後年の近代戦、更に強力な外国を相手にして、信長に似た陣城戦法に似た戦術を用いて戦った旧日本陸軍軍人がいました。それが、日露戦争(1904~1905)において当時世界最大の陸軍を擁していたロシア帝国陸軍と死闘を演じた名将軍の1人であり、日本騎兵をゼロから創り上げ「日本騎兵の父」と称せられる秋山好古(1859~1930 最終階級:陸軍大将)であります。
 司馬先生の超大作である歴史小説『坂の上の雲』(文藝春秋社)の主人公の1人として有名であり、筆者も好古大将の名言や行動から察せられる豪放磊落・無欲恬淡な性格、柔軟かつ現実に即した思考力、そして晩年期における教育者(中学校校長)としての有終の美などにも大いに惹かれる者でございます。
 好古の生涯や軍歴の詳細について本記事では割愛させて頂きますが、前掲の1904年の日露戦争で、好古(当時:陸軍少将、47歳)は自分が創設した日本騎兵団を率いて出征し、遼陽会戦・沙河会戦、「日露戦争の関ヶ原」と言われた最終決戦の奉天会戦などでロシア陸軍相手に戦っています。
 沙河会戦と奉天会戦の間で、ロシア軍に猛攻勢を掛けられて開戦された「黒溝台会戦(1905年1月25日~1月29日)」 というのがありますが、その時に好古率いる『秋山支隊(騎兵・歩兵・砲兵・工兵などの混成軍団)』僅か8千は、日本軍の最左翼40kmという広範囲を守備していましたが、1905年1月その防禦が薄い最左翼にロシア軍の猛将・オスカル=グリッペンベルク大将率いる10万の大軍が襲来してきました。
 対して好古が採った作戦が、信長が長篠設楽原で実施した陣城戦法に似た籠城戦、現代軍事用語で云われる『拠点防衛方式(陣地防御)』であります。
 前述のように、長篠設楽原での信長は織田軍の本陣である山全体に大規模な土木工事を施すことによって、幾重の空堀・土塀・柵からなる陣城を築いて籠り、大量の鉄砲を活用することにより、自軍より遥かに強兵であった武田軍を撃退しましたが、黒溝台における好古は自分の指揮範囲である黒溝台・沈旦堡・韓山屯・李大人屯の4つの陣地拠点の防御力を高めるために、工兵を使い塹壕(空堀)や逆茂木(柵)などを築いて籠城態勢を整えました。
 即ち、好古は戦力において圧倒的不利である戦況下では自分の得意分野で秋山支隊の根幹であった騎兵部隊を決戦には用いずに、馬を仮厩舎にしまい込んで、秋山支隊の総員は銃などを携えた歩兵となり、拠点防衛方式でロシア軍を迎撃したのであります。
 更に好古は自軍の決定的な戦力不足を補うために、当時最新兵器であり数分で何百発も射撃可能である「機関銃(保式機関砲)」を他の日本陸軍軍人よりもいち早く日露戦争で導入。黒溝台会戦では、機関銃に加えて騎兵砲(大砲)などの兵器を駆使することによって、結果的にロシア軍10万の猛攻を8千の寡兵で耐え抜き、辛くも日本陸軍を崩壊から守り抜きました。
 当時創設されたばかりの日本騎兵は、世界最強騎兵団であったコサック騎兵団を有するロシア陸軍に比べ遥かに、軍馬の質や騎兵運用が劣っており、好古はこの事を誰よりも認識していたので、ロシア陸軍との肉弾戦は避けて防御拠点内に籠り、機関銃や大砲などを遠距離兵器を上手く使うことによって敵軍を退けたのであります。好古は彼我の兵力や兵器の質を冷静かつ現実的に分析(忖度)したことによって作戦を実行していったのであります。
 好古の末弟であり、日本海海戦(1905年5月27日)における作戦全般の立案者とされる旧日本海軍軍人・秋山真之(最終階級:海軍中将、1868~1918)も、リアリズムに非常に富んだ天才的な頭脳と超人的な行動力を持つ鬼才でありましたが、兄の好古も真之に劣らない優れた思考力と実行力を持っており、その証左が黒溝台会戦での戦い方『拠点防衛方式』に顕れています。



 
 後年、好古が親戚の子供に『叔父さんは、ロシアとの戦いで負けてばかりいたの?』と質問された際に、(自己顕示欲が皆無な)好古叔父さんは平然と『そうだ。叔父さんはいつも負けてばかりいた。しかし、逃げなかったぞ。』と語ったという逸話が残っています。
 「負けてばかりいたが逃げなかった」好古将軍が信長の長篠設楽原での陣城を知っていたのかは不明ですが、好古も信長のように、恥も外聞も気にしない『弱者』『臆病』の姿勢を強固にして貫き通す戦い方して、日露戦争における陸戦勝利に貢献した名将であることは間違いなく、恐らく日本の戦国期で初めて土木建築を大々的に戦略・戦術を主眼とした織田信長の系譜は、近代戦にも受け継がれていたと~大仰ではありますが~筆者は思うのであります。

(寄稿)鶏肋太郎

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