板部岡江雪斎(いたべおか-こうせつさい)は田中泰行の子として1537年に伊豆下田にて生まれた。別名は田中融成、岡野融成、岡野嗣成とも言う。
江雪と言う真言宗の僧侶であったが、その優秀さから北条氏政に召し出されたとされる。
一般的に板部岡江雪斎は、伊豆国田方郡狩野荘田中の「田中融成」と言う人物で、北条氏政の命により跡目がいなかった板部岡氏を継いだとされ、伊豆七島の代官職も兼任したと言われている。
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なお、父・田中泰行は、鎌倉滅亡時の北條時行(鎌倉幕府第14代執権・北条高時の次男)の子孫を称している。
いずれにせよ、北条氏政(北條氏政)の命を受けて、板部岡康雄(石巻家貞の子)の養子として家督を継ぎ、北条氏政の右筆、また北条家の評定衆として、主に外交面で活躍する外交僧として重要な役割を担った。
子には板部岡房恒(岡野房恒)、姪(姉の娘)に徳川家康に見初められて側室となり徳川頼宣・徳川頼房を産んだ、万(萬、養珠院)がいる。
北条家では寺社の管理を行う寺社奉行として、佐竹家との戦いでの戦勝祈願など、寺社管理に共に関わった安藤良整との連署も多く見られ、1571年、北条氏康が病に倒れたときには鶴岡八幡宮にて病気平癒の祈願を行なった。
1573年、その死が隠された武田信玄の死去について噂が流れると、北条氏政の命を受けて「病気見舞い」として死の確認に甲斐へ赴いた。
このとき、武田信玄の弟・武田信廉が影武者となって応接したが、見抜けず「信玄生存」と報告した話は有名である。
武田勝頼や上杉謙信との交渉の他、徳川家康の仲介で北条家が織田信長と同盟を結んだ際にも、板部岡江雪斎が使者として赴いた。
1582年、明智光秀の本能寺の変により織田信長が横死したあと、信濃を巡る徳川家康との対立である「天正壬午の乱」では、北条氏直に代わって和睦交渉などに奔走した。
その結果、徳川家康の娘・督姫を、北条氏直の正室に迎えると言う、北条家に有利な和睦をまとめ上げている。
信頼された板部岡越中守融成(板部岡江雪斎)は、小田原奉行衆の筆頭として、出陣した際には小田原城の留守を任されている事が多かった。
その後は、岩槻城主・太田氏房の補佐として岩槻城に入った。
1589年、北条家と豊臣秀吉との対立が深まると、板部岡江雪斎は北条氏規(北條氏規)と共に関係修復に尽力し、北条家当主らの上洛を約束。
このとき、豊臣秀吉は板部岡江雪斎をたいそう気に入り、自ら茶を点てて、与えたとされている。
また、豊臣秀吉に嫌われた山上宗二が、茶にも深かった板部岡江雪斎を頼って、北条家の世話になっている。
北条氏政・北条氏直の上洛は、北条氏照や家老・松田憲秀の反対で実現せず小田原攻めとなる。
小田原城開城の際には北条氏直(北條氏直)の夫人を守っていたが、無事に徳川家康に引き渡すと、板部岡江雪斎は生け捕りとなった。
そして、今回の戦の責めを豊臣秀吉に問われたが「戦争を起こして主家が滅んだ事は江雪が思慮をもってもどうしようもない。むしろ滅ぶ運命だったのだろう。日本全国の大軍を迎えて一戦交えたのは北条氏の面目にとってこれ以上のことはない。遠慮せずに首を刎ねよ。」と述べたと言う。
これに対して豊臣秀吉は考えを変え「はりつけの刑にでもしようと思ったが、主人を少しも批判しないこと、誠にあっぱれ。一命は助ける。今後は豊臣に仕えよ。」と板部岡江雪斎を許し、御伽衆に加えた。
その時、豊臣秀吉の命にて岡野融成に名を改めている。
1592年には、下妻の多賀谷重経へ豊臣秀吉の命で交渉に出向いている。
豊臣秀吉が没したあとも、岡野融成(板部岡江雪斎)の評価は高く、長男・岡野房恒が仕えていた徳川家康の家臣に招かれた。
石田三成が挙兵した関ヶ原の戦いでは、本多忠勝や井伊直政と共に関ヶ原へ先行し、小早川秀秋の説得を行ったが、この功労に対しての知行加増の恩賞を岡野江雪斎は辞退したとされている。
しかし、岡野江雪斎が馬好きだったことから、馬飼領として徳川家康が恩賞を与えたと言われる。
その後も、徳川家康に近侍したが、岡野江雪斎は、1609年6月3日、京都伏見で病没した。享年69歳。
岡野家の所領は武蔵国都筑郡長津田村であり、子孫は旗本として存続している。
分家においては、岡野家から養子に出した水野忠成がおり、第11代将軍・徳川家斉の側近となり、老中にも昇進している。
幕末には、勝海舟の父である勝小吉が、岡野家9代目・岡野融政(岡野孫一郎融政)の屋敷に住んでいた時期があり、勝小吉は、岡野家当主の放蕩や岡野家用人の年貢不正使用などを改めさせ、岡野家の窮状を救ったとされている。
名刀・江雪左文字
板部岡江雪斎から豊臣秀吉に献上され、その後、徳川家康を経て紀州徳川家に伝わった名刀がある。
南北朝時代初期の刀工左文字の作で、左文字の在銘刀としては唯一の作品となっており、国宝に指定されている。
名前の「江雪」は板部岡江雪斎からとったもの。
文化庁の登録美術品制度により、現在はふくやま美術館に寄託されている。
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