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戦国最強の武将と言えばと聞かれると多くの方が本多忠勝や島左近と答える方が多いかと思います。
しかし、この2人の他にも戦国最強といっても過言ではない人物がおりました。その者の名前は可児吉長(かに‐よしなが)という人物です。
吉長は通称、「笹の才蔵」と呼ばれているので、そのあだ名の方で可児才蔵としてこの人物を知っているかと思います。
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今回は可児吉長の生い立ちを通して実際に戦国最強という程の武功はあったのか辿ってみます。
主君を転々と変える日々
吉長は天文23年(1554)、美濃国可児郡(現在の岐阜県)で生まれました。
両親は定かではありませんが、元朝倉家の側室の子という説もあります。
はっきりわかっているのは幼少期を美濃国可児郡にある願興寺で育ちました。
その時に宝蔵院流槍術の開祖である覚禅房胤栄から槍を学びました。
しかし、逆に槍が振るえ無くなってしまい相談したところ胤栄からは「中途半端に槍を使おうとするからうまくいかないのだ。
無心でも使えるように修業しなさい」と言われ、懸命に修行した結果、自在に槍を使えるようになりました。
その後は斎藤龍興に仕えます。
しかし、織田信長によって斎藤家が滅ぼされると織田家臣団である柴田勝家、明智光秀、前田利家と転々と主君を変えていきました。
ここまで主君を変え続けてきましたが、能力面に関しては申し分ありませんでした。
「笹の才蔵」の由来
そのことを証拠づけるように森長可に仕えていた時に起きた甲州征伐で16名の首級をあげました。
しかし、一般に頭部の重さは7~8㎏なので16名の首級は持てませんでした。
そこで吉長は3つだけ持って行き、他の13の首級には目印として笹を口に含ませました。
その目印もあったので他の首級が見つかったので、吉長はこの時から通称の才蔵と笹を掛け合わせて「笹の才蔵」と呼ばれていました。
しかし、天正10年(1582年)に起きた本能寺の変後は信長の3男、織田信孝に仕えます。
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しかし、信孝が豊臣秀吉に殺害されると甥の豊臣秀次に仕えます。秀次とは翌年に起きた小牧長久手の戦いを機に喧嘩をしてしまい、そのまま浪人となりました。
長い浪人生活から一変して吉長は福島政則に仕えます。
仕えた後は小田原征伐、関ヶ原の戦いで数々の武功をあげました。
特に関ヶ原の戦いでは20の首級をあげたので徳川家康から称賛をあびています。
関ヶ原の戦い後は正則に従って安芸国広島藩で行きます。この時には50歳を越えていたにも関わらず、馬に乗りまわるくらいの元気で老いを感じさせませんでした。
そして、最後も武人らしく甲冑をつけ、床几に座ったまま慶長18年(1613年)に亡くなりました。
果たして戦国最強だったのか
ここまで吉長の生涯を追ってきましたが、吉長が戦国最強と呼ばれるのは一度の戦であげた首級の数と笹で首級をマーキングしたことが所以かと思います。
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笹には酒と同じ意味合いがあり笹を国に含ませるということは酒を口に含ませると同等の意味があるので吉長は討ち取った者へ礼儀を忘れない律儀な人物であることがわかります。
このようなことから可児吉長は強さと礼儀を兼ね備えた仁義溢れる戦国最強の武将であることがわかりますね。
寄稿(拾丸)
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