織田信忠(おだ-のぶただ)は、織田信長の嫡男。母は生駒吉乃とする説もあるが、異説もある。幼名は奇妙丸。
織田信長の跡取りとして、合戦でも総大将として指揮を取る機会も増え、順調に成長し、武田攻めでは武田勝頼を早期に滅ぼすと言う実績も挙げた。
この章では、織田信忠が命を落とした本能寺の変に関してのみ記述する。
武田滅亡から僅か数ヶ月後の1582年6月2日未明、織田家家臣の明智光秀が裏切り、中国攻めへ出陣する途中だった、織田信長の宿舎「本能寺」を突如襲った。
早朝4時30分頃であったと推定されている。
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この時、織田信長と共に中国の羽柴秀吉への援軍として同行していた織田信忠は、本能寺からちょっと離れた妙覚寺を宿舎としていた。
織田信長は100も、織田信忠も手勢は僅か数百(500)程度で、柴田勝家は越前、滝川一益は関東、徳川家康と丹羽長秀は大阪・堺を遊覧中、羽柴秀吉は中国で毛利攻めと、このような好機が無かった事もあり、積もりに積もった明智光秀は手勢15000を京に向け、織田信長を襲撃したのだ。
明智光秀の本隊は、まず織田信長が滞在している本能寺を強襲。
明智光秀謀反の報を受けた織田信忠は、すぐさま本能寺へ救援に向かおうとしたが、そのうち織田信長・自刃の知らせが入ると、明智光秀の攻撃に対して対応する為、異母弟の津田源三郎(織田信房)、側近の斎藤利治、京都所司代の村井貞勝らと共に二条城へ籠った。
この時、皇太子・誠仁親王の居宅となっていた二条新御所に入ると、織田信忠は誠仁親王を脱出させ、わずかな将兵と共に篭城した。
明智勢も二条城を攻撃開始し、近衛前久邸の屋根から二条御所を銃矢で撃ち、伊勢貞興の猛攻には耐え切れず、織田信忠は自害。
介錯は鎌田新介が務めた。
遺体は、二条御所の縁の板を剥がさせて隠すように命じていたとされる。
享年26。
父・織田信長も遺体が発見されなかったが、この織田信忠の首も明智光秀の元に届く事はなかった。
村井貞勝は長男・村井貞成と二男・村井清次とともに討死。
斎藤道三の子で、織田信忠の側近だった斎藤利治は、明智勢の斎藤利三らに攻められ、主を追って討死。
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なお、織田信忠の子・三法師は、本拠地・岐阜城に在城しており難を逃れいたが、前田玄以、長谷川嘉竹あるいは木下某(小山木下氏)に警護されて、清洲城へと避難した為、のちの清洲会議にて羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が「清洲会議」にて、織田家の後継者として擁立したのだ。
岐阜・崇福寺には、父・織田信長と共に「織田信長父子廟」として、織田信忠も供養されており、有料拝観できる。
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