戦国時代最大の番狂わせ 桶狭間山の戦い

桶狭間山の戦い




桶狭間山の戦いは、尾張を統一して間もない織田信長が、大大名の今川義元に大勝利を治めたことで有名です。

しかし、この戦に関する史料がほとんど残っていない為、様々な説を参考にして出来るだけ分かりやすくお伝えしていきます。

【今川義元は無能なのか?!】

海道一の弓取り「東海道で一番強い戦国武将」の異名をもつ今川義元。

しかし、桶狭間での敗戦イメージが強いため、お歯黒を塗って公家の姿をした軟弱で鈍臭い「無能な武将」みたいな印象を持つ方が多いのではないでしょうか。

実際の今川義元は、そうではありませんでした。

戦国七雄に並び称される凄い戦国武将だったんです!

また、名門・今川家を最も繁栄させ全盛期を築き上げたのでした。

外交では、隣り近所の武田信玄北条氏康(どっちも超強い!)と無駄な戦は、しないようにしようという約束事を提案して『甲相駿三国同盟』(甲州・相模・駿府)を結びます。
*甲州:山梨県 相模:神奈川県 駿府:静岡県

内政では、新しい税金の仕組みを設けたり、金山などの鉱山開発、商品流通経済の掌握などで、領国(駿河・遠江・三河)が豊かにして民生を安定させました。

また、京風公家文化を採り入れた今川文化は戦国三大文化(越前:朝倉、周防:大内)と呼ばれ、城下町は京のように華やかだったと言われています。
*越前:福井県 周防:山口県


【今川義元 出陣】

今川義元は、国力を安定させると、次の目標に向かって進み始めたのでした。

今川義元
「氏真(義元の息子)、次の目標は織田信長が治めている尾張(愛知県)に決めた。」

「今の尾張は、うつけ(信長)が支配したばかりで情勢は不安定だと聞いている。」

「それに、三国同盟によって武田と北条への警戒も抑えられているので、勢力を拡大する絶好の機会なのだ。」

「尾張を手に入れたら、次は上洛だ!」

「足利一族である儂(わし)が、幕府権力と将軍権威を復活させて確固たるものにする!」

今川氏真(いまがわ うじざね:義元の息子)
「確かに父上の言っていることは十分理解できます。」

「しかし、今川家の参謀で軍師だった太原雪斎(たいげんせっさい)の後釜が、未だに決まっていない状況です。」

「それに領内には、多くの物資が集まり豊かで安定していると民も喜んでいます。」

「戦になれば商品流通が滞ってしまうだけでなく、大量の兵糧(兵の食糧)も必要になってくるので多くの民が苦しむことになります。」

「ここは、急いで戦をしなくても良いと思うのですが。」

今川義元
「そんな事は、わかっている。」

「尾張が手に入れば、勢力拡大だけでなく益々豊かになることは間違いないのだ。」

「この機会を逃せば、次に動こうとしても厳しくなるとは思わないか。」

「泰朝、お前はどう思う?」

朝比奈泰朝(あさひな やすとも:家臣で掛川城城主)
「殿と氏真さまのどちらも、全くその通りだけに、、、何と言ったらよいか。」

今川義元
「泰朝、お前はハッキリしない奴だな。」

「何のためにココに呼んだと思っているのだ。 もういい!」

「元康(徳川家康)、お前はどう思う?」

松平元康(徳川家康)
「私は、殿に従うだけです。」

今川義元
「そうか、そうか。 さすが元康だ。」

「お前には、是非とも先陣を任せたいと思っている。 よいな?」
*先陣を務めることは、とても名誉なこと

松平元康(徳川家康)
「はっ。 承知いたしました。」

今川義元
「氏真、これで決まりだ!」

今川氏真(息子)
「う~ん、しかし、、、」

今川義元
「氏真に泰朝、お前らは何とも煮え切らないな。」

「儂(わし)は決めたのだ! すぐに出陣の準備にかかれ! わかったな!!」

氏真たち
「はっ! 早急に出陣の準備をいたします。」

3人は、急ぎその場を去って行った。

今川義元
「天下を治める日が近づいてきたな。」

「儂が、戦のない豊かな国にしてみせる!」

1560年5月12日
今川義元が率いる2万5千の大軍が本拠地の駿府を出陣したのです。


【今川の作戦】

1560年5月17日
尾張に最も近い沓掛城(くつかけじょう)に入城した今川義元。

翌日の砦攻めについて軍議が開かれたのです。

今川義元
「松平元康(徳川家康)が率いる先鋒の三河勢2千5百は、明日の夜更けに大高城へ兵糧を届けるのだ。」

「その後、同じく先鋒・朝比泰朝の2千5百と合流して大高城近くの鷲津砦(わしづとりで)と丸根砦(まるねとりで)を攻撃せよ。」

「ここから信長の清須城までは、先鋒5千、攻撃隊を5千、本隊を5千、後方の守備隊を1万で進軍する。」

葛山信貞(かつらやまのぶさだ)が率いる攻撃隊は、鷲津砦と丸根砦の崩落を確認後、中嶋砦と善照寺砦の攻撃に向かえ。」

「先鋒隊も砦を落としたら攻撃隊と合流して一気に残る砦を全て破壊するのだ。」

「あとは信長の清須城を包囲して攻撃すれば、儂の勝ちは決まったもの同然。」

「という訳で、儂は輿に乗ってゆっくり出発する。」

「桶狭間山で高みの見物でもすることにしよう。」

今川義元は、馬に乗れなかったわけではありません。
輿は誰でも乗れるわけでなく、足利将軍の特別許可必要だったのです。
義元は、信長に自分が圧倒的な権威を持っていることを示すために輿に乗って出陣したのです。

今川義元
「そうと決まれば、元康と泰朝は出陣の準備に取り掛かれ。」

「泰朝、田舎侍の信長を倒すことなど簡単な事だと思わないか?」

朝比奈泰朝(あさひな やすとも:家臣で掛川城城主)
「信長など名門・今川家の殿と比較したら、弱小国の田舎侍に過ぎません。」

「しかし、先代の信秀も出来なかった尾張統一を数年で成し遂げている実力の持ち主であるのも事実です。」

「それに、あのマムシ・斎藤道三にも認められた男です。」

「信長を世間が[うつけ者]と言っていますが、私が思うに[ただのうつけ]ではないような気がしてなりません。」

「ですので、念のために用心しておくことも必要かと思われます。」

今川義元
「もうよい、泰朝! お前は心配し過ぎだ。」

「お前の話を聞いていると、勝てる戦も勝てないような気がする。」

「尾張など今川軍の精鋭2万5千で瞬く間に飲み込んでやるわ!」

1560年5月19日 午前0時頃
松平元康(徳川家康)が率いる三河隊は、闇の中を大高城に向けて兵糧を運んで行きました。


【清須城の混乱】

一方、尾張の清須城では、
1560年5月18日に今川軍が尾張国に近い沓掛城(くつかけじょう)まで来ているとの報せが入り、急ぎ軍議が開かれました。

織田信長
「今、間者(忍び・偵察)から報せが入った。」

「今川が沓掛城(くつかけじょう)まで来たとの事だ。」

それだけ言うと、信長は目を閉じてダンマリを決め込んだのです。

柴田勝家(しばたかついえ:重臣)
「このままでは明日、明後日には清須城に到着するかも知れない。」

「今川軍は2万5千の大軍かもしれないが、所詮は各国から寄せ集めの烏合の衆に過ぎない。」

「一方、我々は戦に特化した兵士が2千いる。 織田の精鋭で、本隊に襲い掛かれば勝利は間違いない。」

森可成(もりよしなり:重臣)
「そうなら、今川本隊を何処に誘き寄せるかが大事になってくる。」

「その前に、今川の大高城と鳴海城の動きを封じている砦が全て潰されれば、あっという間に清須城を攻めてくるだろう。」

「であれば、砦を守っている仲間の犠牲が大きくならないうちに清須城に戻して、籠城による持久戦に持ち込むべきだと思う。」

林秀貞(はやしひでさだ:家老)
「尾張を平定したとはいえ、まだ情勢が安定しているとは言えません。」

「苦渋の決断ですが、ここは和議を結んでおいて力をつけてから今川に討って出てはどうですか?」

柴田勝家
「おいおい、秀貞どの。 何を言っているのだ。」

「あんな公家かぶれと戦いもせず、降参しろと言うのか?」

「儂は、そんなことは絶対認めないからな!」

「持久戦にしたって、援軍の来ない籠城など意味がないわ!」

林秀貞
「では、大軍相手にぶつかって勝てるとでも思っているのか?」

森可成
「そうだ、そうだ。 必勝法とやらがあるのなら是非とも聞かせて欲しいものだ。」

柴田勝家
「うーっ、何だと! 腰抜けどもが!!」

軍議は、家臣たちの意地の張り合いによって紛糾して時間だけが過ぎていきました。

すると、信長が突然大あくびをすると、
「う~、疲れた。 今日の軍議は終わり。 解散!」
と言って、出て行ってしまったのです。

突然の事に固まってしまう家臣たち。

その後、広間には、諦めと絶望の雰囲気が漂い始め、誰ともなく大きな溜息をつき散っていくのでした。


【信長の密談】

間者(スパイ・忍び)を束ねている簗田正綱(やなだまさつな)の配下を今川軍に潜り込ませていた織田信長。

軍議の後、簗田正綱(やなだまさつな)を人目に付かぬよう自室に呼んだのでした。

織田信長
「尾張を統一したばかりで、家臣で信用できる者が少ない。」

「そんな時に今川が攻めてくるとは、、、。」

「正綱! 今は、お前からの情報が頼りだ。」

「今川の新しい情報は?」

簗田正綱(やなだまさつな 間者のボス)
「沓掛城(くつかけじょう)に到着した今川義元は、主だった家臣を集めて軍議を開きました。」

「今川の作戦は、殿が考えていた通りでした。 兵数で勝る今川軍は、鷲津砦を手始めに砦を片っ端から潰していくとの事です。」

「また、尾張攻めの拠点を大高城と考えているらしく、今川義元・本隊は砦が崩落するまで桶狭間山にて高みの見物を決め込むみたいです。」

織田信長
「そうか、やはり砦を潰しに来るのか。 忌々(いまいま)しい公家かぶれめ!」

「それを見越して、砦には信頼の出来る家臣を配置しておいた。」

「奴らには、出来るだけ時間稼ぎをするように伝えてある。」

「これで、今川軍も一気に砦を潰すことは不可能になるから、大軍を分散させるはずだ。」

「本隊が桶狭間山で高みの見物というのであれば、あそこに大軍を駐留させておくのは困難。」

「ということは、こちらにとって絶好の機会が訪れるかもしれないぞ。」

「よいか、正綱。 簡単に勝てると思わせれば、必ず今川義元に隙(すき)が出来るはずだ。」

「本隊が一番手薄になりそうな時を調べてくれ。 よいな。」

簗田正綱(やなだまさつな)
「はっ。 承知しました。」

織田信長
「今川なんかに、儂は負けん!」


【砦の崩落(ほうらく)】

1560年5月19日 午前3時頃
大高城に兵糧を無事運び込み、朝比奈泰朝と合流して鷲津砦と丸根砦の攻撃に向かった松平元康(徳川家康)。

今川軍を待ち受ける丸根砦には、佐久間盛重を大将に500人が駐留(ちゅうりゅう)していました。

松平元康の三河勢が丸根砦の前に現れると、一斉に砦を出て白兵戦(敵味方入り乱れて戦う)に挑みました。

これにより、不意打ちを食らった三河勢は、混乱となり前線の兵が次々と討たれてしまったのです。

しかし、松平元康の指揮により態勢を整え直すと、数に勝る三河勢は一気に押し返したのでした。

この衝突で、佐久間盛重をはじめ多くが討ち取られてしまった織田兵。

鷲津砦は、飯尾定宗、織田秀敏が籠城戦(ろうじょうせん)に持ち込むが、朝比奈泰朝の総攻めにより崩落(ほうらく)しました。

桶狭間前哨戦となる砦攻めは、今川軍の圧倒的な勝利となったのでした。

一方、砦を守っていた織田兵は、少しでも時間稼ぎして今川軍を足止めしておくようにと信長から命令されていたので、その部分では織田側も作戦が成功したといえます。


【信長 出陣】

前日の軍議では、今川軍が接近しているのも関わらず他人事のようだった織田信長。

1560年5月19日 午前4時
砦が襲撃されている報せを聞いて飛び起きると、
織田信長
「皆の者、出陣じゃー!!」

「蘭丸! 儂の太刀を持ってくるのだ!」

「湯漬け(飯に熱い湯をかけた食事)の準備もしておけ。」

小姓:森蘭丸(信長の側に仕える少年)
「はっ! 承知しました。」

そこに柴田勝家が、血相を変えて走ってきました。

柴田勝家
「殿―! 戦と聞きましたが、何処を攻めるのです?」

織田信長
「バカめ! 義元の首に決まっているだろうが!!」

「お前も遅れたくなければ、屋敷に戻って戦の準備をして来い!」

「あっ、集合場所は熱田神宮だと他の奴らにも言っておけ。 わかったな!」

柴田勝家
「はっ! 急ぎ屋敷に戻り皆にも知らせます!!」

「おーっ! 戦じゃー! 戦じゃー!」
と叫びながら、走っていったのでした。

信長は、湯漬けをかきこむと、幸若舞「敦盛」を舞い始めました。

《幸若舞 一部抜粋》
人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり。

一度性を享け、滅せぬもののあるべきか。

『人間の寿命は50年。 下天の定年に比べると、夢幻のように儚い(はかない)もの。
 一度生を授かっても、この短い命、誰でもいつかは消滅してしまうものだ。』

幸若舞『敦盛』を舞ったのは、今川義元の軍勢なんて恐れる必要などない。思いっ切り戦ってやろうではないかという信長の固い決意を表現したものでした。

1560年5月19日 午前4時頃
出陣の身支度を整えた信長は、小姓衆(主の側に使える少年)5騎を引き連れて清須城を出陣しました。

熱田神宮に向かって馬を走らせていると、報せを聞いた家臣たちが続々と信長の後ろに付いていったのです。


【戦勝祈願】

1560年5月19日 午前8時頃
出陣の報せを聞いた織田軍総勢2千が熱田神宮に集結したのです。

信長は、戦勝祈願をした後、皆に向かって叫んだのでした。

織田信長
「皆の者! 我々は、織田の精鋭なり! 今川なんかに臆することはない!!」

「いざ出陣!!」

織田軍
「おーっ! 今川なんか蹴散らしてやる!! 我らは、織田の精鋭じゃー!!」

これから厳しい戦いとなる不安と恐怖を打ち消すように何度も叫んだのでした。

今川の鳴海城近くの善照寺砦に向けて進軍していく織田軍。

多くの兵は、死を覚悟していたので明らかに顔が強張っていたのです。


【今川義元 桶狭間山へ】

1560年5月19日 午前9時
大高城を包囲する丸根砦、鷲津砦が今川軍の先鋒部隊(松平元信・朝比奈泰朝)によって崩落しました。

これで、大高城と鳴海城の障害が無くなりました。

今川軍の攻撃隊5千は、先鋒部隊による砦崩落を確認すると、次の目標である鳴海城を包囲する善照寺砦と中嶋砦に向かって出陣したのです。

元康・泰朝が率いる先鋒隊も次の戦に向けて準備を整えると、休むことなく攻撃隊に続いたのでした。

ただ、先鋒隊の兵達は、昨夜から休みなく働いていたので体力的にも精神的にも限界に近いというのが、松平元康(徳川家康)にも十分伝わってきました。

今川家中では、弱い立場のために戦で酷使されていることを改めて痛感する松平元康でした。

使者⓵
「お報せします! 今川の先鋒隊が、丸根砦と鷲津砦を撃破!」

「砦の攻撃前に、大高城に兵糧の無事運び込まれました。」

今川義元
「おーっ! 元康、泰朝、ここまでは上出来だぞ。」

「これで大高城への道も開けた。 では、儂ら本隊も出発するとするかな。」

「よーし、出発じゃー! もう勝ちは決まったようなものだから急がなくても良いからな。」

【砦 到着】

1560年5月19日 午前10時
信長は、善照寺砦に到着しました。

信長は、砦の状況と今川本隊の動きについて確認すると、善照寺砦に佐久間信盛以下500人余りを残して後方支援としたのです。

信長は、2千の兵を率いて中嶋砦に向かうことにしました。 午前11時に信長出陣。

中嶋砦を守っていた佐々政次、千秋四郎たちは、信長が中嶋砦に向かっているのを確認すると注意を逸らすために、こちらに向かってきている今川軍に攻撃を仕掛けたのでした。

数で圧倒する今川軍は、瞬く間に殲滅(せんめつ)してしまいますが、信長たちが中嶋砦に到着するまでの時間稼ぎをすることが出来ました。

この後、急変する天候によって織田信長と今川義元の運命も急転していきます。

午後1時頃、空が急に暗くなり雨が降り始め、風も吹き始めると目も開けられないほどの暴風雨に変わっていったのです。


【高みの見物】

桶狭間山に到着した今川本隊。

勝利を確信していた今川義元は、祝宴を開くように命じます。

ここから高みの見物をすることにしたのでした。

今川義元
「ここは眺めがよいので、祝宴の準備をするのだ。」

「兵たちにも酒を振舞ってやれ。」

「織田の田舎侍など大したことなかったわ! これなら年内には上洛が果たせそうだな。」

家臣(側近)
「殿、祝宴の準備が整いました。」

今川義元
「そうか、そうか。」

気持よくお酒を飲んでいた今川義元。

しかし、急に空が暗くなり暴風雨へと変わっていったのです。

祝宴は中止なり、各自が雨風を凌ぐために避難していきました。

この時の今川本隊は、見張りを立てることもなく、それぞれで避難したため全く統率の取れていない状態となっていたのです。


【全軍 出陣!】

織田信長
「戦勝祈願のおかげじゃー!」

「天も我らに味方をしているぞー!!」
織田信長は暴風雨の中、突然叫んだのでした。

織田信長
「皆の者、良く聞け! この雨は、天も我々に味方している証拠だ!」

「この機会を逃してなるものか!!」

「全軍、出陣!! 狙うは義元の首!!」

織田軍
「おーっ!!」

こちらに向かっていた今川の攻撃隊と先鋒隊が、暴風雨のため足止めを食っていたのも
信長にとって幸運だったと言えます。

また、桶狭間に向かっている織田軍は、この戦いのために新しい武器・槍(やり)を用意していました。

通常の槍の長さは4mですが、織田軍の槍の長さは6mありました。

通常、槍は突くものではなく上から叩く事で効力を発揮していました。

織田軍の新しい武器・槍は、相手が近づく前に倒せるという利点があったのです。


【桶狭間山の戦い】

織田軍は桶狭間山に駐留している今川本隊に知られることなく登ってくる事が出来ました。

織田軍は、今川義元が休んでいる本陣を取り囲むような態勢が完了すると、先程までの暴風雨が止み始めたのです。

織田信長
「よし! 今じゃー! 突撃!!」

信長の突撃命令がでると、織田軍は一斉に突っ込んでいったのです。

まさか、織田軍がこんなところに来ているなど予想もしていなかった今川軍は大混乱となります。

この雨のため、甲冑を脱いでいた者も多かったので、あっという間に多数が討たれ、何もせず逃げる者も続出しました。

今川義元
「おいっ! 何が起きたのだ?」

「誰か、わからないのか?」

家臣⓵
「申し上げます! 織田信長が率いる織田軍の襲撃です!」

「殿、ここは危険ですので一刻も早くお逃げください!」

今川義元
「なにっ! 信長だと?!」

「清須城に居るはずの信長が何で桶狭間に来ているのだ?」

家臣②
「この暴風雨に紛れて来たのだと思われます。」

「殿! ここは我々が守りますので、とにかくお逃げください!」

今川義元
「ええいっ! うるさいわー!」

「おのれー! 田舎侍め! 次は必ず一族ごと根絶やしにしてやるからなー!」

「うーっ! 悔しいが、ここは一旦退却だー! 直ぐに儂の馬を持ってこい!」

家臣⓵
「はっ! 承知しました。」

「殿の馬を準備しろー!」

「近習(主の側近・親衛隊)は、駿府まで殿を護衛するのだ! よいなー!!」

今川義元は輿(こし)を捨て、馬に跨って退却しようとしている所に織田軍が雪崩れ込んできたのです。

近習たち(主の側近・親衛隊)
「殿をお守りするのだー!」

勢いに乗る織田軍を止めることが出来ず、今川の近習達が次々と討たれていきます。

毛利良勝(織田家の家臣)
「そこにいるのは、今川義元殿でよろしいですか?」

今川義元
「あーそうだ! 儂が海道の弓取りの今川義元じゃー!」

「この首、お前みたいな下っ端に取られてたまるかー!」

毛利良勝
「いざっ! 勝負!!」

今川義元
「こざかしいわー!」

死闘を繰り広げた後、毛利良勝が今川義元の首を取ろうとしたとき最後の抵抗とばかりに指を食いちぎったのです。

その抵抗も虚しく、今川義元は討ち取られてしまいました。

奇襲を開始してから1時間で決着がついたのでした。


【大番狂わせ】

織田信長
「皆の者! ここまでよく戦ってくれた!!」

「絶対的不利という状況にもかかわらず儂によく付いて来てくれたことに感謝する!」

「そして、天も儂らに味方してくれた!」

「ここから、他の今川勢にもわかるように勝鬨(かちどき)を上げるのじゃー!!」

信長と織田軍
「えい、えい! おー!!  えい、えい! おー!!  えい、えい! おー!!」

【今川軍 退却】

総大将の今川義元の討死が伝わると、砦に向かっていた今川軍は一転して逃げるように退却したのでした。

そして、大高城、鳴海城、沓掛(くつかけ)城は、織田の城となりました。

今川軍の先鋒を務めていた松平元康(徳川家康)は、三河国主にも関わらず今川の家臣のような扱いを受けていたので、駿府には戻りませんでした。

松平元康は、故郷である三河の岡崎城に入り、今川から離れて独立の道を選びました。

そして、尾張の織田信長との繋がりを深めて頭角を現していきます。


【まとめ】

桶狭間の戦いは、史料によると信長公記に桶狭間山と書かれており、戦の場所が谷ではなく山だったのではないかという説が強くなってきたので、今回は桶狭間山で書いてみました。

戦国時代最大の大番狂わせ桶狭間山の戦いは、信長の奇襲作戦によって大勝利を収めましたが、悪天候という天運に恵まれた部分も非常に大きいと思われます。

ただ、桶狭間の戦いの史料がほとんど無いため、信長が勝ったのは事実ですが、詳細に付いては全く分かっていません。

今後、新たな史料などによって、本当の桶狭間の戦いはどうだったのか知れたら嬉しいです。

(寄稿)まさざね君

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まさざね君

投稿者プロフィール

これまで、私は歴史好き(戦国時代)というだけで、特に言語化することなく過ごしてきましたが、相手に少しでも価値あるものを伝えたいと思うようになりライターになりました。
>
>記事の対象は、歴史にあまり詳しくないライト層向けになってます。
>
>自分の記事で歴史に興味を持ってもらえたら嬉しいです。

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