竹崎季長とは~『蒙古襲来絵詞』を残した義理堅い勇将~

竹崎季長

前回、北条時宗と彼の事績について紹介しましたが、二度にわたる元寇を語るに欠かせないのが、今回紹介する竹崎季長(たけざき-すえなが)です。
彼は自らの戦役経験を『蒙古襲来絵詞』で残した功労者として有名ですが、それにとどまらぬ様々な事件に関わっている武将と言う側面もあります。

竹崎季長は、寛元4年(1246年)、肥後国竹崎郷(現熊本県宇城市松橋町)に生まれました。
出自は九州の名門・菊池氏の同族なのですが、所領争いに負けて没落していた一門でした。
そのため、季長は武士でありながら貧しい暮らしを余儀なくされていたと言われています。

不遇をかこつ季長に武功をあげる機会が訪れたのが、文永11年(1274年)に起きた文永の役でした。
季長も参戦するのですが、貧しい彼が鎌倉幕府軍の総大将である少弐景資が布陣した息の浜に参じた竹崎家の部隊は、たった5人でした。


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その内訳は、季長と彼の姉婿三井三郎資長、旗指(軍旗を持つ者) 三郎二郎資安、郎従の藤源太すけみつ、中間(武士の最下級)が一騎と言うもので、御家人と呼ぶには貧弱なものであったことは想像に難くありません。

景資が立てた案は『赤坂から博多に攻め込んで来た元軍を射る』ものでしたが、季長は先駆けを行いたいと申し出て許されます。
赤坂の戦いで菊池武房らによって撃退された元の将兵を追いかけ、季長は鳥飼潟まで追撃をかけるものの負傷してしまいます。
竹崎季長以下3名が負傷したためピンチに見舞われますが、肥前の御家人・白石通泰達の援軍で切り抜けることに成功しています。

こうして、負傷してまでも戦陣を切った季長でしたが、戦功が認められず(もしくは手違いで伝わらず)、恩賞は与えられませんでした。
季長は先駆けの功績を認めて貰うべく、貴重な財産である馬などを売って旅費を工面し、鎌倉幕府の外戚にして重臣である安達泰盛(恩賞奉行)に訴え、願いは聞き届けられます。

この背景には、季長の烏帽子親であった三井季成と幕府のつながりがあったとする説もありますが、いずれにしても季長は肥後の海東郷(熊本県宇城市海東地区)の地頭職を拝命すると言う、名誉と褒賞を賜ることが出来たのでした。

弘安4年(1281年)に再び元軍が襲来した時(弘安の役)は、安達泰盛の息子である盛宗の指揮下で季長は大活躍します。
特に志賀島や御厨海上の戦いでは元・高麗の船に奇襲をかけて勝利に貢献し、恩賞を賜りました。

12年後の永仁元年(1293年)、季長は自身の戦いや鎌倉での陳情を描いた『蒙古襲来絵詞』を描かせて甲佐大明神に奉納したり、菩提寺として塔福寺を建立、所領の郷社に対する7か条の置文を制定するなどの文化事業を興したのち、出家して法喜と名乗ります。

その後の季長に関しては、正和3年(1314年)には更に18か条の条文を定め、元亨4年(1324年)にも海東神社へ田や金品を寄付した記録が残っていますが、いつ頃亡くなったのかは不明です。
死後、熊本県宇城市小川町東海東の塔福寺に葬られたとされていますが、同市の小川町北海東にも彼の墓とされる物が現存しています。


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後世、絵詞に自分の戦う様子を描いたり、泰盛を相手に直訴したりと、季長には『この手柄は俺のものだ!』と自己主張する人物としてのイメージが定着していますが、当時は手柄や主張を訴えることが、ごく当たり前に行われており、決して非常識な行動ではありませんでした。

また、『蒙古襲来絵詞』が完成する8年前の弘安8年(1285年)、恩人であった安達泰盛と一族が霜月騒動で滅ぼされており、絵詞の中に泰盛が描かれていることなどから、鎮魂のために作成されたとする説もあります。

恩賞を得ようと奮起するも、恩情には報いようとする季長が残した『蒙古襲来絵詞』は元寇の様子だけでなく、御恩と奉公に象徴される鎌倉武士の生きざまをも、私達に伝えています。

(寄稿)太田

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