矢沢頼綱(やざわ-よりつな)は、真田頼昌の3男として1518年に生まれた。通称は真田源之助。矢沢薩摩守頼綱、矢沢頼幸とも書かれる。
母は海野棟綱の娘とされる。
兄に真田幸隆がいる他、弟に常田隆永、鎌原幸定、海野幸景、萩原綱重がいる。
三男の宿命か幼い小頃に出家に出されて、京都の鞍馬寺にて僧になったとされるが、生来の武辺者と言う性格であったため寺を追放されて、程なく真田の里に戻ると還俗したとされる。
子供のころからの暴れん坊だったようで、小袖のまま甲冑も付けず大長刀を振り回していたと言われている。
そして、年代は不明だが、真田郷に隣接して敵対していた諏訪一族の矢沢家へ養子に入って、矢沢郷(上田市殿城町矢沢)の領主となり矢沢頼綱と称した。
13歳の時に初陣を果たしたとされている。
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1541年5月、海野平の戦いでは海野氏に与して敗北し真田幸隆は箕輪城主・長野業正を頼ったが、矢沢頼綱(24歳)は諏訪頼重の仲介により武田信虎に従い武田家の家臣となった。
その後、兄・真田幸隆が武田信玄の家臣に加わると、1551年に真田幸隆と共に荒砥城を攻撃し、村上義清の家臣で村上一族でもあった山田国政と吾妻清綱を攻め滅ぼしている。
このように兄・真田幸隆と共に武田信玄に仕えて信濃先方衆として活躍し頭角を現し、36歳である1553年には村上義清を越後へ追いやり上田を回復。
1563年9月の上野・岩櫃城の攻略でも戦功を挙げている。
そして、真田家の吾妻平定でも大活躍し、岩櫃城代を勤めたこともあった。
愛用の槍は「小松明」(こたいまつ)。
正室は根井清雲の娘で、1553年に嫡男・矢沢頼康が誕生している。
武田信玄が死去した翌年の1574年に真田幸隆が亡くなったあとは、真田家の家督を継いだ真田信綱に従っている。
1575年5月、長篠の戦いで真田信綱が討死すねと、真田家を継いだ甥・真田昌幸に従い、真田家でも筆頭家老として君臨した。
武田勝頼から頼りにされた真田昌幸は、甲府にて執務を取る事が多かったので、吾妻の経営や沼田領への侵攻指揮を矢沢頼綱が執っている。
1580年5月、沼田城攻めの総大将として攻略に成功すると、その功績により沼田城代に任命された。
矢沢頼幸、矢沢綱頼と名を変えていたあと、この頃には「頼綱」と改名したと考えられており、1581年2月11日に武田勝頼から太刀を受けていることから、同時に偏諱も受けていた可能性が考えられる。
1582年3月、織田信長の武田領侵攻によって、武田勝頼が天目山の戦いで自刃すると、真田昌幸は独立を目指し、矢沢頼綱も命に従って忙しく働いた。
特に沼田城にあっては、援軍も望めない中、僅かな兵力で北条氏直・北条氏政・北条氏照らの北条勢を撃退し、沼田城を見事に守った、
1583年6月17日には沼田領白根などに200貫文を与えられ、1585年3月14日付の書状では、沼田城代の功に対して、海野領で1000貫文が知行されている。
また、徳川家康との上田城の戦いでは、呼応した北条氏邦が沼田城に攻め寄せてきた。
上田城は徳川勢に攻められており、援軍も望めない中、北条家の大軍を迎え撃つため、矢沢頼綱は沼田の中心街へ向かう途中にある、木戸口付近に「薪」を集めたと言う。
そして、北条勢が木戸口付近に大挙して攻め掛かった際に、沼田城内から松明を持った農民らを敵に向かわせて、松明を投げつけさせた。
松明が薪に引火したことで、北条勢の甲冑が燃えたり、馬が暴れるなどし北条勢を僅かな兵力にて退けている。
このように、豊臣秀吉の裁定により沼田城を明け渡すまで、北条勢からの幾度の攻撃を受けても、軍略を持って沼田城を守り抜いた名将と言える。
1585年に真田信繁(真田幸村)が越後の上杉景勝の人質として赴いた際には、嫡男・矢沢頼康も供として越後に赴いている。
この年に嫡子・矢沢頼康と連署したのが最初であり最後で、それ以降矢沢頼綱(68歳)の活躍は見られないため、家督を譲ったものと推定されている。
そして、矢沢頼綱は1597年5月7日に死去した。享年80。
菩提所は矢沢の良泉寺。
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