山崎吉家 朝倉家の宿老になる軍略に優れた武将

山崎吉家

山崎吉家(やまざき-よしいえ)は、戦国時代の武将で、越前・朝倉氏に仕えた山崎長吉の子として生まれました。
生年や母の名は不詳です。
初見としては、1506年に、 加賀一向一揆が越前・九頭竜川へ進出した際に、 朝倉宗滴に従って出陣した説があります。
ただし、1531年に、朝倉勢が加賀に侵攻した際、朝倉宗滴と今湊に着陣した武将の中に「山崎新左衛門尉」がおり、こちらの初見が有力です。
このように、一環して、朝倉宗滴(あさくら-そうてき)に従っていることから、山崎氏は朝倉宗滴の家来だったと言えるでしょう。
この朝倉宗滴は、戦国大名としての朝倉義景の宗家ではなく一族でありますが、朝倉家の参謀格として実質的に軍務を取り仕切りました。


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1555年、朝倉宗滴は加賀に侵攻し大聖寺城を攻撃しますが、このとき朝倉宗滴は陣中で病となって帰国し、のち没します。
その代役を任されて活躍したのが、山崎吉家と朝倉景隆でした。

その後、山崎吉家は上杉謙信との外交などでも活躍しており、織田家の脅威が迫ると武田信玄とも交渉しています。

1567年、朝倉氏の家臣の堀江景実が反旗を翻して一向一揆と結ぶと言う噂が流れると、山崎吉家は朝倉義景の命を受けて、魚住景固らと堀江氏討伐の兵を指揮しました。
ちなみに、堀江景忠は能登に亡命しています。

また、足利義昭が越前に下向して一乗谷城に入る際には、足利義景に従って、足利義昭を迎えています。
そして、越前にいた明智光秀ともかかわるようになったものと推測されます。


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1570年、織田信長越前・金ヶ崎城を攻撃した際には、朝倉景鏡に従って出陣しています。
金ヶ崎の戦いにて織田勢が撤退すると、姉川の戦いの直前に帰陣しました。
その後、浅井長政の要請があると、近江・小谷城に入り「山崎丸」を築いたとされます。
そして、朝倉勢の本隊に合流して、琵琶湖の西岸から南下して 近江・坂本に至ると、宇佐山城の戦いにて、森可成・織田信治・青地茂綱らを討ち取る大手柄を上げました。

1573年にも、朝倉義景の敦賀出陣にも従い、若狭・佐柿城に付け城を築いています。
そして、近江へ進軍しますが、 敦賀へ退却中に佐久間信盛柴田勝家滝川一益・木下秀吉・丹羽長秀などの追撃を受け、 刀禰坂の戦いで、殿(しんがり)となり、討死にしました。
山崎一族としては、弟・山崎吉延(山崎吉清)、珠宝坊、子の山崎吉健ら、多くが共に戦死しています。
刀根坂の戦いでは、朝倉勢としても、朝倉景行、朝倉道景、斎藤龍興、河合吉統ら多くの名のある武将を失っており、7日後に朝倉氏は滅びました。


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なお、山崎吉延の子である山崎長徳が、のちに明智光秀・柴田勝家に仕え、最終的には前田利家前田利長の家臣として存続しています。

2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、山崎吉家を俳優の榎木孝明さんが演じられます。

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