馬場信春~鬼美濃と呼ばれた勇猛果敢な武田家武将


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 馬場信春(ババノブハル)
 1514年(1513年?) ~1575年5月21日
 別称:旧姓は教来石、民部景政、氏勝、玄蕃、政光、信勝、民部少輔、民部大輔、馬場信房、美濃守

 馬場信春は教来石信保(教来石遠江守信保)の子として1514年に誕生したとされる。(1513年又は1515年とする説もある。)

 父・教来石信保は甲斐の在地武士集団「武河家(武川家)」の流れの旗頭で、諏訪との国境に近い教来石を領していた。
 教来石信保の子・教来石景政は馬場姓を武田晴信(のちの武田信玄)から与えられるまでは、教来石景政(教来石民部景政)と名乗っていた。
 武田信虎の時代には信州の諏訪・佐久方面で戦功があり、武田晴信(のちの武田信玄)初陣である海の口城攻めでは敵の大将・平賀源心を討つという功績を挙げたと言われている。

 1541年、武田信虎追放の際には板垣信方に従った。以後、武田晴信家臣として躍進し譜代家老衆にまで取り立てられ、武勇のみならず内政にもその才を発揮して「武田家四名臣の一人」と呼ばれた。

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 1546年、武田晴信は教来石景政を旗本組から50騎持ちの侍大将に抜擢。そして、武田晴信の命により名門・馬場氏の名跡を継ぐ他、民部少輔に任し、また武田晴信から「信」の字を賜り馬場信房(馬場民部少輔信房)と改名させた。
 馬場氏は武田譜代の重臣だったが、武田晴信の父・武田信虎は馬場虎貞(馬場伊豆守虎貞)の諫言に怒り誅殺し、馬場家は断絶。武田晴信は馬場家を名跡復活させた。
 1559年、70騎が加えられ、合計120騎持ちの侍大将となり、武田家譜代家老衆の1人として列した。
 1561年の第4次川中島の戦いでは、上杉軍の背後を攻撃する別働隊の指揮を任された。
 1562年、信州・更級に牧野島城を築いて150騎で守った。
 1565年、「鬼美濃の武功にあやかれ」と、病死した原虎胤(原美濃守虎胤)の美濃守の名乗りを受け継ぐことを許され、馬場民部少輔信房を改め馬場美濃守信春(馬場信春)と名乗る。相備えは江間常陸守150騎、岡部次郎右衛門ら飛騨・駿河衆合わせて500騎。
 馬場信春の家臣で20回以上の手柄を立てた采配御免の衆は鵄大弐、中牧豊後守、平林藤右衛門、早川豊後守、金丸弥左衛門、小幡弥宗右衛門ら。

 1566年、信州・牧島城(真木島・牧野島)の守将を務める。馬場信春は50騎程を伴い武田信玄の側に居り、駿河今川攻めでは先陣。
 1568年、今川攻めでは今川館焼討ちに参加し今川氏の財宝を焼く。甲陽軍鑑によると今川館焼討ちの際、武田信玄が財宝を運び出すようにとの指示があったが、馬場信春は「戦中に財宝を奪うなど貪欲な武将と後世に笑われる」と、財宝を再び火中へ投げ込ませたとある。武田信玄はあとでこれを聞き「確かに理に叶っている。さすが7歳年上の事だけはある」と称したとある。真偽はいかに?
 1569年には三増峠の戦いで先鋒として北条軍と戦い武功を挙げた。この頃、富田郷左衛門と言う馬場信春に使えた甲州乱破の頭領が北条氏に偽情報を流すなどかく乱もしていたようだ。
 この年、幻術と唐剣の使い手で「飛びの加藤」と呼ばれ忍者・加藤段蔵が上杉氏から武田氏に寝返りしていたが、優れすぎた忍者技術を警戒した武田信玄は馬場信春に命を出し、馬場信春は厠に入っていた加藤段蔵を暗殺している。
 1572年12月22日、三方ヶ原の戦で、馬場信春は武田勝頼と第二陣。乱戦のすえに敗走を始めた徳川家康鳥居元忠らの旗本衆を追撃した。
 1573年、武田上洛軍の別働隊を指揮し天竜川を南下して、徳川勢の中根・青木らが守る二俣城に向った。二俣城は天龍川に面した天然の要害で、馬場信春は山県昌景とともに夜襲するが、城の守りは難く失敗。そこで、馬場信春は、天龍川から城へ水を汲み上げる取水口を探りあて、上流から筏を流す策を講じ、城の取水口を破壊。水が得られなくなった二俣城は武田軍に降服した。
 同年1573年、遠江・諏訪原城と三河・古宮城を築城し、武田信玄が死去すると、山県昌景と共に譜代家老衆の筆頭して武田勝頼を補佐した。
 この頃であったと考えられる天ヶ谷城攻め(高橋の城攻め)では「駿河記」に馬場信春の家臣で戦死した者として浅見藤三郎、猪目市右衛門、猪目市之丞、鵜川五郎右衛門、八代弥太平とある。

 1575年05月、長篠の戦いに先立ち内藤昌豊・山県昌景らと共に「一戦無用」と退却を説くが、武田勝頼とその側近らは応じなかった。
 5月21日、水野信元勢を押し一の柵から二の柵へ攻める。 敗走する武田勝頼が落ち延びるのを見届けて、迫る敵から武田本隊を守り討死。61歳。
 信長公記によると「中にも馬場美濃守手前の働比類なし」と織田信長もその戦いぶりを賞賛したと言う。

 上記写真は長篠にある馬場信春の墓。

 →長篠の戦い詳細版はこちら

不死身の鬼美濃

 甲陽軍鑑によると、馬場信春は40年、70回以上も戦さに出陣したが1度も負傷していない。この事を小山田信茂が不思議そうに尋ねると、馬場信春はこう言った。「別に不思議な訳はない。小幡山城殿が、敵より味方をよく見て、そのうえで稼げば、犬死にもない、といわれたのを真似したまでのこと。まず味方、敵の中に深く入る時は備えの中の巧者のものと相談して慎重を期し、敵が味方の中へ深く入ってきたら、敵の兜の吹き返しによく目を付けるようにいたすこと。この二つを考えあわせ、盛んなるをひかえ、衰えるを盛り返す・・・他に何もない」

武田滅亡後の馬場家

 馬場家の家督は嫡子の馬場昌房が継ぎ、父の名と同じ馬場信春とも称していたようだ。1582年の武田滅亡時には、信濃・深志城(松本城)の城代を務めていた。戦わずして開城した、降伏した、自害した、転戦して信濃・牧之島城にて討死したとも言われており、よくわかっていない。
 その後、馬場家の家督は馬場信春の弟・馬場信頼が継ぐことになったが、甲斐を出て和泉・淡輪にて暮らした。その孫・馬場信成は武田滅亡後、他の武田衆とともに徳川家康に属し、以後、小牧・長久手の戦いなどにも出陣して戦功をあげて、その子孫は徳川家旗本となっている。いまもなお、馬場信春の子孫と称する家が全国にある。

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