雅仁親王【後白河法皇】~後白河天皇の所業とは


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雅仁親王/後白河法皇~後白河天皇 (ごしらかわほうおう)

■雅仁親王
 1127年9月11日~1192年3月13日
 父は鳥羽上皇、母は中宮・藤原璋子で、第四皇子として生まれた。鳥羽上皇と藤原璋子の間には五男二女を儲けている。
 この頃の天皇家では皇后の定員が2名であり、一方を皇后宮、他方を中宮と呼ぶ慣例があった。ただし、皇后宮も中宮も「皇后」であり、上下関係などはなかったようである。
 雅仁親王は1139年12月27日、12歳で元服して二品(にほん)。二品とは、一品から四品まである親王の位階で第二等に当る。
 このように、雅仁親王は皇位継承には遠い存在であったためか、今様(民謡・流行歌)などを好み、よく遊んでいたようである。そのため、父・鳥羽上皇は「即位の器量ではない」とみなしていたようだ。
 雅仁親王の最初の妃は、源有仁の養女・懿子であった。しかし、1143年に守仁親王(後の二条天皇)を産むと急死した。 その後、藤原季成の女・成子を妃とし、2男4女をもうける。

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■後白河天皇・後白河法皇

 崇徳天皇のあと、僅か2歳で即位していた、異母弟の近衛天皇が1155年に17歳で亡くなると、兄の崇徳上皇(すとくじょうこう)の皇子の重仁親王(しげひとしんのう)と、弟であった雅仁親王が次の天皇の候補となり、後白河天皇として即位。
 しかし、後白河天皇が即位した時にはは、皇室と摂関家、源氏・平氏で対立が深まっており、1156年、鳥羽法皇が崩御するとすると朝廷の主導権を巡って「崇徳上皇派」と「後白河天皇派」が激しく衝突した保元の乱が勃発した。
 藤原摂関家では、藤原忠実(ただざね)と藤原忠通(ただみち)父子の関係が悪化しており、父・藤原忠実は次男・藤原頼長(よりなが)を後継に考えるようになり、嫡男である関白・藤原忠通を疎んじていた。
 鳥羽上皇を恨んでいた崇徳上皇は、鳥羽上皇の後を継いだ後白河天皇と対立することとなり、崇徳上皇派には藤原忠実・藤原頼長がつき、武士は平忠正(ただまさ)・源為義(ためよし)・源為朝(ためとも)が味方した。
 一方、後白河天皇派としては、美福門院・得子と親しかった関白・藤原忠通(ただみち)で、藤原忠通に従った平清盛と源義朝(よしとも)が加勢したのである。この平清盛と源義朝は、後に源平の棟梁となるのであった。
 藤原頼長は矢に当たり戦死。崇徳上皇は捕らえられ讃岐国に配流された。
 保元の乱で勝利した後白河天皇は、朝廷における権力基盤を固めて、全国の荘園整理を実行。国政改革に藤原信西を抜擢した。

 1158年、後白河天皇は、自分の第一皇子であり美福門院(得子)の養子となっていた16歳の守仁親王(二条天皇)に皇位を譲り、自らは上皇として「院政」を敷いた。
 しかし、即位した二条天皇は後白河上皇の院政に従うことを嫌い、対立が激化。源義朝も後白河上皇政権下であまり恩恵を受けていなかった。
 そして、1159年、平治の乱が起こる。平清盛が熊野詣で京を離れていた12月9日夜、院御所・三条殿が藤原信頼・源義朝の軍勢によって襲撃され、後白河上皇と二条天皇は、内裏の一本御書所に幽閉される。
 しかし、六波羅に引き返してきた平清盛や二条天皇近臣の葉室光頼らにより二条天皇は内裏を脱出し、平清盛の六波羅邸に迎えられた。さらに後白河上皇も仁和寺に退避すると藤原信頼・源義朝は孤立。
 追い込まれた源義朝は軍勢を率いて六波羅に攻め込み、源義平(悪源太)ら東国武士が勇戦するが、激しい合戦の末に数に勝る平家勢が勝利。
 藤原信頼は仁和寺に逃げ込むも即刻斬首。源義朝も、鎌倉目指して逃亡するが、尾張で家来の長田忠致の館で宿泊した際に、恩賞目当てで裏切った長田父子に入浴中に襲撃されて討死。
 源義朝の長男・源義平は、京都に潜伏し平清盛を暗殺を目論んだが、失敗し処刑。次男・源朝長は平治の乱後の落ち武者狩りで重傷を負って自害し。三男・源頼朝は捕縛されて斬首されるところを池禅尼に助命嘆願によって助命され、流罪となり伊豆大島に流され、20年後の決起旗揚げまで流人生活を送ることになった。
 また、常磐御前との間に生まれた今若(阿野全成)・乙若(義円)・牛若(源義経)の幼い三兄弟も助命され、牛若(源義経)は京の鞍馬寺へ預けられたのである。
 これにより、平氏の天下が確定。
 後白河上皇と二条天皇の対立は双方の有力な廷臣が共倒れになったため、これ以降、後白河院政派と二条親政派の対立は膠着状態となった。

 後白河上皇と対立して天皇親政を目指した二条天皇が23歳で崩御すると、後白河上皇と平清盛が共謀して1168年、六条天皇退位させ、まだ8歳だった憲仁親王(後白河天皇の子)を高倉天皇(在位1168-1180)として即位させた。
 法皇と言う呼び名は、上皇が出家した際の称号で、正式には太上法皇と言う。
 後白河上皇は1169年に出家し、後白河法皇になった。
 平清盛は次女の建礼門院徳子(けんれいもんいん・とくこ、1155-1214)を高倉天皇の中宮にし、徳子は次の天皇となる言仁親王(ときひとしんのう、安徳天皇)を産む。これにより、平家の栄華は頂点となったのである。

 後白河法皇は平清盛とは政治的な考え方の違いから、対立もあったが、新しいものを好むという点では意見が合い、1170年9月20日に、後白河法皇は福原に御幸して、宋人と面会するなど、日宋貿易には理解を示した。この天皇が宋人と会うと言うのは、遺戒でタブーとされた行為であったことから、九条兼実などは仰天したと言う。
 1173年頃には、日宋貿易は公的に本格化していき、輸入品である宋銭は国内に大量に流入して、重要な交換手段となった。
 後白河法皇が日宋貿易と並んで、積極的に取り組んだのが寺社の統制であり、荘園も持ち有力寺社だった、南都興福寺と比叡山延暦寺に対して、強硬な政治姿勢で対応した。

 1174年3月16日、後白河法皇は滋子を伴って安芸国の厳島神社に参詣するため京都を出発。福原を経由して26日に到着した。福原からは平清盛が用意した宋船を利用したと考えられる。当時としては天皇もしくは院が后妃を連れて海路を渡り、遠方まで旅行することは前代未聞であり、吉田経房などは驚愕した。

 1176年に後白河法皇は50歳を迎え、3月4日~6日にかけて法住寺殿で賀宴が催された。この時期の天皇・院は短命で50歳に達することは稀であり、盛大に執り行われた。宴には後白河院・滋子・高倉帝・徳子・上西門院・守覚法親王・関白・大臣・公卿・平氏一門が出席し、平頼盛も出席。皮肉にもこの賀宴は、後白河法皇と平氏の協力関係としては最後の行事となった。
 賀宴後の3月9日、後白河法皇は滋子を連れて摂津国・有馬温泉に御幸。4月27日には比叡山に登り、天台座主・明雲から天台の戒を受け、延暦寺との関係修復を図る。しかし、6月に滋子が突然の病に倒れ、7月8日に薨去。相前後して高松院・六条上皇・九条院も死去しており、政局は混迷に向かうことになる。
 
 滋子の死去によって、後白河法皇と平氏の関係は悪化する方向に向かった。
 1176年12月5日には、院近臣の藤原成範・平頼盛が権中納言となる。
 しかし、加賀国目代・藤原師経が白山の末寺・宇河寺を焼いたことが発端で、加賀守・藤原師高の父が院近臣の西光であったことから、本寺にあたる延暦寺が、1177年4月に加賀守・藤原師高の流罪を要求して強訴を起こす。
 後白河法皇は目代・藤原師経の流罪で事態を収拾しよう考えたが、延暦寺の大衆は納得せず4月12日に神輿を持ち出して内裏に向かったのだ。
 後白河法皇は強硬策をとり平重盛らを派遣するが、翌日警備にあたった平重盛の兵と大衆の間で衝突が起こり、矢が神輿に当たって死者も出したことから事態はさらに悪化。
 大衆は激昂して神輿を放置して帰山すると、やむなく朝廷は祇園社に神輿を預けて対応を協議した。
 4月20日、藤原師高の尾張国への配流、神輿に矢を射た平重盛の家人の拘禁が決定。大衆の要求を全面的に受諾することで事件は決着し、父親の西光も一時配流が決定された。
直後の4月28日、「太郎焼亡」と称される安元の大火が発生。大極殿および関白・松殿基房以下13人の公卿の邸宅が焼失した。このような中で、後白河法皇は5月4日に天台座主・明雲の逮捕を検非違使に命じ、翌日には座主職を解任、所領を没官すると共に、5月21日に伊豆国へ明雲を配流した。藤原師高の父・西光の進言もあったと考えられている。
 しかし、5月23日、延暦寺の僧兵や大衆2000名により、明雲は助けられ、延暦寺に戻る。
 これに激昂した後白河法皇は、延暦寺攻撃を平重盛・宗盛に命じたが、驚いた平重盛は、福原の平清盛に判断を仰ぎ「平清盛の指示がなければ動かない」と出動を拒否したため、後白河法皇は福原から平清盛を呼び出した。
 平清盛は5月27日の夜に京都に入り、5月28日に後白河法皇と会見。平清盛は押し切られる形となり、やむを得ず出兵を承諾するが、内心では事態の悪化を招いた後白河院と西光を快く思ってはいなかったようだ。
 出撃直前の6月1日、平清盛の西八条邸を多田行綱が訪れて、平氏打倒の陰謀があることを密告。(鹿ケ谷の陰謀)
 平清盛は直ちに西光を呼び出して拷問にかけ、全てを自供させると五条西朱雀で斬首。同じく呼び出された藤原成親も拘束したが、藤原成親の妹が、平氏棟梁・平重盛の妻であった事もあり、この際には命だけは助かったようで西八条亭に禁固されている。
 6月4日、鹿ケ谷の陰謀に参加した、俊寛・基仲・中原基兼・惟宗信房・平資行・平康頼などが一網打尽にされ、6月5日、明雲の配流が解かれた。6月9日、尾張に流されていた藤原師高が、平清盛の家人の襲撃を受けて惨殺。藤原成親は一旦は助命されて6月2日に備前国に配流され、平重盛から衣類を送られるなどの援助を受けていたが、その後、食事を与えられず7月9日に餓死したとされる。
 これにより、後白河法皇は有力な近臣を失い、政治的地位の低下を余儀なくされ、後白河法皇と平清盛との対立が鮮明になる。
 一方、平重盛は、白山事件で家人が矢を神輿に当てる失態を犯したのに加え、妻の兄が配流されて助命を求めたにも関わらず殺害されたことで面目を失い、6月5日に左大将を辞任。
 以後、平氏の棟梁としては、平宗盛が地位を確立して行く。また、平清盛の弟・平頼盛も、妻・大納言局の兄弟である法勝寺執行・俊寛が謀議に加わっていた事から、平家において厳しい視線にさらされたものと見られる。

 平清盛は山門との衝突を回避し、反平氏の動きを見せていた院近臣の排除に成功したが、平清盛と後白河法王の関係は修復不可能なものとなった。
 この頃、17歳となった高倉帝が政治的自立の傾向を見せ始め、平清盛も高倉天皇に政権を移行させたかったようだ。
 1178年11月12日、高倉帝と、徳子の間に第一皇子が無事に誕生する。
 平清盛の娘で、、摂政・近衛基実の正室になり、近衛基実の死後、その摂関家領を管理していた白河殿・盛子が1179年6月17日に死去すると、その遺領を巡り相続問題で、後白河法皇と平清盛は全面衝突。
 1179年11月14日、平清盛はクーデターを起こし、後白河法皇を住み慣れた法住寺殿から洛南の鳥羽殿に連行し幽閉。後白河院政は停止された。
 後白河法皇は鳥羽殿で厳しい監視下に置かれ、藤原成範・脩範・静憲(信西の子)や、女房2~3人以外、御所への出入りは禁じられたと言う。
 平清盛は、勇猛で冷静な武将である嫡男・平重盛に平家の託していたが、1179年平重盛が病死(享年42)。

 1180年2月21日に高倉帝は譲位し高倉院政が発足した。しかし、京は打倒平家の敵勢力が増え、6月2日、平清盛は敵対勢力に囲まれて地勢的に不利な京都を放棄し、平氏の本拠地・福原への行幸を強行する。後白河院も強制的に同行させられ、福原の平教盛邸に入った。
 しかし、福原の新都建設が難航している間に、10月の富士川の戦いで、平家は大敗し軍事情勢が逆転。高倉上皇の病状も悪化し、平清盛も福原を諦めて、11月23日に福原し26日に京都に到着。後白河院も六波羅泉殿に入った。
 
 1181年1月14日、高倉上皇が崩御。
 2月4日には平清盛が死去。 変わりに政権担当できる者がいなかったことから、後白河法皇が院政を再開することを、平宗盛も認めた。

 1183年 源義仲(木曽義仲)に平氏追討の院宣を出す
 1184年 源義経が源義仲を破り、源義仲戦死
 1185年  平氏、源義経らによって壇ノ浦で滅亡  
 後白河法皇、源義経に源頼朝の追討を命ずる宣旨を出す
 後白河法皇、源頼朝に源義経の追討を命ずる宣旨を出す
 源頼朝は、源義経追捕を口実に全国に守護と地頭を設置
 1189年 源義経は、源頼朝の命を受けた藤原泰衡に攻められ自決
 1190年 源頼朝はじめて京に入り、後白河法皇と面会
 1192年 後白河法皇崩御  源頼朝が征夷大将軍になり、鎌倉幕府成立

源頼朝と北条政子【鎌倉幕府の尼将軍と征夷大将軍】旧相模川橋脚も
源義経とは~腰越状と腰越の満福寺や首塚・白旗神社なども

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