蒲池鑑盛 蒲池鎮漣 柳川城主として忠義を貫くも

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柳川城

蒲池鑑盛(かまち-あきもり)は柳川城主・蒲池鑑久の子として1520年に生まれた。
母は不詳。
蒲池氏は筑後屈指の名族で、鎌倉時代以来、蒲池城を本拠としていた。
1500年代に入ると蒲池治久が柳川城を支城として築城する。

豊後から肥後に進出を果たした大友義鑑は、肥前にも拡大を図るが、それまでに蒲池氏は大友家に臣従していたようで、筑後十五城筆頭にもなる蒲池家の勢力拡大を懸念し、蒲池治久の子である兄・蒲池鑑久と弟・蒲池親広を「二家」に分割させる。
こうして、柳川城主となった蒲池鑑久は嫡流として下蒲池を称し12万石に。
山下城に分家となった弟・蒲池親広(かまち-たかひろ)は、上蒲池の祖となり8万石を有した。


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そんな柳川城主・蒲池鑑久の嫡男である蒲池鑑盛は、兵法に優れる武将へと育ち、大友氏の家臣として活躍する。
1543年頃、父・蒲池鑑久(かまち-あきひさ)は、足利将軍の供をする役目を怠ったとして、大友義鑑から成敗されたようで、1543年から蒲池鑑盛が家督を継承している。

なお、1545年に水ヶ江城主・龍造寺家兼龍造寺隆信が頼って柳川城(柳河城)を訪れている。
龍造寺家は大友家と敵対しているにも関わらず、蒲池鑑盛は快く迎え入れ、翌年の挙兵にも手を貸した。

1547年にには、正室・貞口院(乙鶴姫、田尻鑑種の姉)との間に次男(嫡子)・蒲池鎮漣(かまち-しげなみ)が生れている。
※長男・蒲池鎮久は側室の子であったようで、のち家老という形で弟を補佐した他、蒲池統安、蒲池統康などの子がいる。

1550年に主君・大友義鑑が謀反によりその後死去し、家督を継いだ大友義鎮(大友宗麟)にも蒲池鑑盛(31歳)は忠実に仕えた。

1551年、山口の大内氏館主・大内義隆が家臣の陶隆房の謀反により自害する。
その直後、少弐冬尚に攻められ佐賀城主・龍造寺隆信が再び逃れてきた際には、三潴郡一木村(大川市)に300石を与えただけでなく、家臣・原野恵俊を世話役につけるなど、またも手厚く保護し、1553年の挙兵時にも蒲池家の精鋭300を派遣して佐賀城奪還に協力している。
その為、龍造寺家はこの蒲池鑑盛がいなければ、滅んでいたと考える方も多いようだ。

このような蒲池鑑盛の人柄を、肥陽軍記では下記のように記している。

ここに筑後国、蒲池鑑盛と云う人は下筑後にて威をふるい、武勇のほまれ有り、和歌管弦にも長じた「情ふかい人」なり。

九州への侵攻を開始した毛利元就大友宗麟とが対立すると、門司城の戦いや、1567年に大友家から離反した高橋鑑種(高橋紹運の養父)討伐などにも参加。


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1570年に、大友宗麟の命で大友親貞を総大将に、戸次鑑連、吉弘鑑理、臼杵鑑速らが、龍造寺隆信の佐賀城を包囲した際には、蒲池鑑盛(53歳)は田尻親種と共に、数十隻の船で筑後川を渡り、包囲戦に加わっている。
今山の戦いで、大友勢が大敗を喫すると、蒲池鑑盛と嫡子・蒲池鎮漣が龍造寺家との和睦を仲介している。

1578年、北上する薩摩の島津義久島津家久らとの耳川の戦いでも、大友勢の田原親賢に従って出陣。
蒲池鑑盛は病気を押して、嫡子・蒲池鎮漣や3男・蒲池統安と3000にて布陣したが、家督を継いでいた蒲池鎮漣(32歳)は、既に大友宗麟から離心しており、病気を口実に2000の兵と共に柳川城へ帰ってしまう。
※途中で落馬したとして引き返したなど諸説あり。
しかし、蒲池鑑盛は義を重んじ大友勢に留まり直属の兵1000を率いて、苦戦する耳川の戦いを戦った。
そして、島津家の本陣ヘの突撃を試みるも大友家は総崩れとなり、蒲池統安と共に討死する結果となった。享年61。

その蒲池鑑盛の最期は「湊川の戦いにおける楠木正成の壮烈な最期にも比せられる」と筑後国史に記載されている。

蒲池鎮漣

耳川の戦いのあと、龍造寺隆信はすぐさま筑後への侵攻を開始したが、既に龍造寺家に傾いていた蒲池鎮漣は、その行軍に加わっている。

しかし、1580年には「先非を改め、貞心を励ましむべきの由」と大友宗麟に伝え、再び大友家に従臣を誓った為、大友宗麟も蒲池鎮漣の復帰を認めている。
ただし、引き続き龍造寺家の出陣要請も断れなかったのか、参陣するもたびたび無断で抜け出すなど、中途半端な行動になっていまっている。

そのため、1580年8月、龍造寺隆信は、下蒲池・蒲池鎮漣を討伐する軍勢を柳川城(柳河城)へ差し向けたことから、蒲池鎮漣は島津家にも接近を図っている。
更に、1581年、柳川城の戦いでは2万の兵で包囲されるが「柳川三年」という歌があるほど、難攻不落だった柳川城は陥落を免れている。

しかし、長期の籠城で疲弊し、兵糧も尽きたため、伯父・田尻鑑種の仲介によって龍造寺隆信と和睦し、龍造寺隆信の娘・玉鶴姫を迎える事になった。
※時期は諸説あり。


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この時は、田尻鑑種が「蒲池鎮漣は島津氏に通じている」と龍造寺隆信に知らせたが、最初、龍造寺隆信は大恩ある蒲池鑑盛の子でもあり、娘婿となった蒲池鎮漣を信じていたと言う。
しかし、その後も、菊地鎮漣謀反の兆しと言う情報が度々もたらされ。
そして、蒲池鎮漣の親族・西牟田鎮豊より「島津家の伊集院右衛門太夫から蒲池十郎宛に当てられた内応証拠の書状」が提出され、龍造寺隆信は、田尻鑑種とともに策略を計画した。

龍造寺隆信は新しい城を築城したので、見に来てほしいと言う来訪を断る蒲池鎮漣を説得させるため、蒲池鎮漣の母(田尻鑑種の姉)や、兄である蒲池鎮久にも依頼した。
しかし、これは罠だと察した玉鶴姫は、会いに行く事に猛反対したともされるが、断れ切れなくなった蒲池鎮漣は、兄・蒲池鎮久と屈強な家臣200名を連れて柳川城を出た。
家老の大木統光は行列に駆けつけ、中止を求めるも、蒲池鎮漣は、一旦城を出た以上は引き返すのは恥辱であると答えたと言う。

佐賀城で龍造寺隆信の嫡男・龍造寺政家の歓待を受けた翌日、須古城へ向かいだしたところ、与賀神社の近くで龍造寺の刺客部隊に蒲池鎮漣は襲撃された。
蒲池家臣200も奮闘するも全員討死し、蒲池鎮漣は自刃して果てた。享年35。

蒲池鎮漣の死を見届けた龍造寺隆信は、すかさず鍋島直茂と田尻鑑種に柳川城攻めを命じたが、柳川城(柳河城)では当主の死の報を受けて内部分裂する。

弟・蒲池統春はもともと親龍造寺寄りだったため、家族や郎党を率いて柳川城から退出し佐留垣城へ移ると、龍造寺家に恭順。
大木統光は龍造寺隆信の下へ参じると、亡き主君のそばで切腹させて欲しいと頼みむが、龍造寺隆信は、切腹せず生きているよう説得。後に鍋島直茂に従っている。


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そして、最終的に柳川城に残ったのは、蒲池鎮漣の嫡男・宗虎丸、生母の貞口院、蒲池鎮漣の側室や侍女など108名を含む総勢500名ほどだったとされ、柳川城から塩塚城へ移って籠城したと言う。

鍋島直茂と田尻鑑種の説得により、貞口院は塩塚城を出て保護されたが、残りの500名は拒否したため、塩塚城の戦いとなり、約120名が討たれた。
宗虎丸や側室らは逃れたようだが、龍造寺家から嫁いでいた玉鶴姫はどうも自害したようである。
※蒲池家が誅殺したとする説もある。

下記は塩塚城跡付近にある玉鶴姫らの供養塚「百八人塚」

百八人塚

百八人塚がある場所は下記の地図ポイント地点となり、宋樹寺の駐車場が拝借可能。

その後、蒲池鎮漣の嫡子・宗虎丸は投降した田尻鑑種が殺害されたともあり、下蒲池家は滅亡した。
もっとも、非道な振る舞いが目立つようになっていた龍造寺隆信も、以後家臣の離反が相次ぎ、のち沖田畷の戦いで島津勢に討ち取られている。

なお、豊臣秀吉の九州攻めのあと、柳川城は立花宗茂に与えられ、残された上蒲池家や筑後の国衆は、立花家の与力となった。

福岡県久留米市にて社会保険所の所長の娘として生まれた蒲池法子さんは蒲池家の末柄で、のち松田聖子さんとして歌手デビューを果たし国民的人気アイドルになった。
ミリオンセラーを連発した音楽ユニット「ZARD」のボーカルとして知らせた秦野の坂井泉水さんも、本名は蒲池幸子さんで御子孫となる。

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