山名豊国とは~没落し亡国の将となるも桃山文化を伝えた名門「山名氏」の生き残り

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鳥取城

山名豊国(やまな-とよくに)は、1548年に山名豊定の次男として生まれました。初名は山名元豊(もととよ)です。
母は室町幕府の管領・細川高国の娘となります。

戦国時代に山陰地方で勢力を張った山名氏(やまなし)は、いくつか支族がいます。

もともと山名氏は、清和源氏の新田氏の流れて、本貫は上野国多胡郡(八幡荘)山名郷でした。
山名時氏が協力した縁戚の足利尊氏が室町幕府を開くと、山陰地方の守護に命じられ、最盛期には、因幡、伯耆、隠岐、丹波、丹後、但馬、美作の守護を兼ねています。
これは、日本全国の15%程度を領有していたと言う事で「六文一殿」(ろくぶんのいちどの)と呼ばれるほどの隆盛を誇っていました。
しかし、応仁の乱となり、山名宗全の没後は領国支配も揺ぎ始めて没落して行きます。


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そんな中、ある程度勢力を維持していたのは、但馬守護の山名宗全の系統となる山名誠豊、山名祐豊。
因幡守護の山名誠通、山名豊通。
そして、但馬山名氏の山名豊定(やまな-とよさだ)であり、その但馬山名家の系統が山名豊国となります。
とにかく、山名氏も一族が多くて、非常にわかりにくいです。

しかし、守護と言えどもこの頃の山名氏は尼子氏や毛利氏などの圧迫を受けていました。

父・山名豊定の兄は但馬守護で山名氏宗家となった山名祐豊で、一族の因幡守護・山名誠通を討ち取ると、弟の山名豊定が因幡守護として二上山城に入りました。

1560年3月3日に父・山名豊定が49歳で死去します。

山名豊国には兄・山名豊数(やまな-とよかず)がいますので、兄が家督を継いだとご紹介したいところですが、代わりに因幡の守護大名となったのは、山名棟豊(むねとよ)です。
この山名棟豊は、父の兄である山名祐豊の長男でしたので、宗家が支配を確立しようとしたのです。

しかし、永禄4年(1561年)5月に、山名棟豊が18歳の若さで死去します。
そのため、兄・山名豊数が守護代に任命されました。
家中掌握もままならず、有力国人は自立を目指すなどしたため、支配は弱まり、1563年には重臣の武田高信が謀反を起こして、新守護に山名祐豊の一族・山名豊弘を擁立し挙兵します。

兄・山名豊数はただちに、武田高信の鳥取城を攻撃するも失敗して、重臣・中村豊重を失いました。(湯所口の戦い)
そして、守護所がある布勢天神山城から退去し、鹿野城に移っています。
永禄7年(1564年)7月には、鹿野城も攻め込まれ、以後、兄・山名豊数の名は文献から見られなくなっています。

因幡・岩井城主となっていた山名豊国も城を追われて隣国の但馬国八束まで逃れたあと、山中鹿之助(山中幸盛)ら尼子氏残党の支援を得て、山名豊国が因幡山名家の家督を継承しました。
そして、武田高信の居城・鳥取城を奪っています。

鳥取城の登城路

1573年、毛利勢の吉川元春の攻撃を受けると、鳥取城を明け渡して毛利家に臣従し、毛利輝元から「元」の字を与えられて、一時、山名元豊と改名しています。
のち、織田信長に通じると、山名豊国に改名し、尼子勝久らの尼子党を支援し、尼子勢は1574年に、毛利浄意の守る鳥取城を攻め落としました
そして、山名豊国は尼子勢と合流し、ふたたび鳥取城主となっています。

1580年、羽柴秀吉が侵攻した際には、鳥取城に籠城しました。

鳥取城

この時、重臣の中村春続、森下道誉らは徹底抗戦を主張しますが、山名豊国は単身で城から抜け出して降伏し、織田信長より助命を受けています。

しかし、森下道誉・中村春続ら旧臣はそのまま鳥取城に籠城して、吉川元春に支援を要請します。
その結果、吉川一門で文武両道に優れた吉川経家が、鳥取城で指揮を執るよう命じられて「首桶」を自ら持参して、1581年2月に鳥取城に入ったと言う事になります。

鳥取城の天守台

この時の山名豊国の行動にも諸説あるのですが、羽柴秀吉の通じようとしたから、森下道誉・中村春続らに追放されたとも、はてまた、吉川経家が入城した時にも城にいたもののり、鳥取城の情報を織田勢に密告していたことが発火して、逃亡したとも言われています。

いずれにせよ、羽柴勢の陣に下った山名豊国は、旧臣や吉川経家が抵抗する鳥取城を攻撃する側となり「鳥取城渇え殺し」に加わります。

この時、鳥取城の守備は、旧山名家の家臣が1000名、毛利家からの加勢が800名、農民も含むと総勢4000とされますが、包囲する羽柴勢は約20000で、黒田官兵衛の献策により兵糧攻めとしました。
約1ヶ月で鳥取城の兵糧は尽き、3ヶ月目には城内で餓死者が出始めたと言います。
吉川経家は森下道誉・中村春続と相談し、城兵の助命を引き換えに降伏の意思を示し、4ヶ月の籠城の末、吉川経家は切腹。享年34。
森下道誉と中村春続も自害して果てました。

それを見た、山名豊国は、豊臣家への仕官の話も断り、浪人となったようで、のちに摂津・川辺郡の小領主である多田氏の世話を受けたようで、去る際には非常に丁重な挨拶をしたと伝わります。

1586年には、まだ浜松城主だった徳川家康から知行を受けたともされ、和歌・連歌・茶湯・将棋などの文化、教養面に精通していた山名豊国は、豊臣秀吉の御伽衆となり、1592年からの朝鮮攻めの際にも、肥前・名護屋城に呼ばれていたと言います。

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いでは徳川勢として亀井茲矩の陣に加わって活躍。
1601年、但馬・七美郡を与えられ6700石にて寄合旗本(参勤が必要な旗本)になりましたが、大名復帰にまったく関心を持たなかったようです。


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この時、但馬山名家(山名祐豊の家系)は断絶していたため、但馬・山名家の血筋でもある山名豊国が、山名氏の宗家となっています。
その後も、徳川家康・徳川秀忠から信頼を得て、入道して禅高と号したあとも駿府城の茶会などに参加するなどした山名豊国は、1626年10月7日に死去しました。享年79。

ご子孫は江戸幕府の表高家並寄合と交代寄合表御礼衆として続いています。

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