島津義弘~数々の武勇を残すも実直であった文武両道の猛将

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島津義弘とは

戦国時代の1535年7月23日、薩摩・伊作城(本丸を亀丸城と呼ぶ)にて島津義弘(しまづ-よしひろ)が誕生。父は島津貴久で、次男として生まれた。
母は継室・雪窓夫人(入来院重聡の娘)。幼名は忠平。幼い頃から勇敢で活発だったようで、将来を嘱望されて育ったと言う。

1536年、島津家中の統一を目指していた島津義弘の祖父・島津忠良(日新公)と父・島津貴久の親子は、先祖代々からの居城・伊作城から、薩摩国中央部の一宇治城に拠点を移し、鹿児島の制圧を目指し、同族の島津分家の支持を得ると、島津家中の統一を果たした。

1546年に11歳で元服すると島津又四郎と称した。


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1550年、父・島津貴久は拠点を鹿児島の内城に移した。

1554年、父・島津貴久、兄・島津義久、弟・島津歳久と共に大隅国西部の祁答院良重・入来院重嗣・蒲生範清・菱刈重豊などの連合軍と岩剣城にて戦い、島津義弘は初陣を飾り、功績により島津義弘は岩剣城の城主に任じらた。

1557年、大隅の蒲生氏を攻めた際に初めて敵の首級を挙げた。
島津義弘は三尺の剣を振るい蒲生本城へ斬り込んで、一騎討ちを制したのである。このとき、自ら鎧の五ケ所に矢を受けて島津義弘も重傷となった。

1560年4月24日、日向国の伊東義祐の攻撃を受けて、救援を要請してきた飫肥の島津忠親を援助する為、島津義弘は養子となって飫肥城に入った。
しかし、1562年、薩摩本家が肝付氏の激しい攻撃にあい、帰還していた隙に飫肥城が陥落し、養子縁組も白紙となった。
以降は飯野城を居城としている。

日向・飯野城

1566年、父・島津貴久が剃髪して隠居し、嫡男・島津義久に家督を譲ると、島津義弘は兄・島津義久の良き補佐役となって島津家の勢力拡大に多大なる貢献を果たして行った。
小林城(三ツ山城)攻めでは重傷を負い、吉田温泉(えびの市)にて湯治している。

1571年に父・島津貴久が没すると、日向の伊東義祐が飯野城攻略を開始し、島津義弘も重傷を負うなどしている。

1572年、伊東義祐の弟・伊東祐安が3000の大軍を率いて攻めてくると、僅か300の兵の島津義弘は計略を駆使した「釣り野伏せ」(つりのぶせ)の戦術にて撃退し、伊東祐安を討ち取った。この「九州の桶狭間」とも呼ばれる木崎原の戦いで大勝利を挙げた。

木崎原古戦場跡

島津義弘の最初の正室は北郷忠孝の娘。その後、継室として亀徳(相良晴広の娘)、継室:実窓夫人(広瀬夫人、園田実明の娘・宰相殿)を娶っており、1573年には、実窓夫人(宰相殿)が後継者と目された島津久保を産んでいる。
 
1577年には伊東義祐を日向から追放することに成功。事態を重く見た大友宗麟は、田原親賢に30000の大軍預けて豊後から遠征させた。
1578年には、兄・島津義久と共に耳川の戦いにも参加。田原親賢の大友勢は、3方からの挟み撃ちを受けて約3000の戦死者を出し、大友家衰退の要因を作った。

1581年に帰順した相良氏に代わり、1585年には肥後国の守護代として八代に入って阿蘇氏を攻めて降伏させるなど、兄に代わって島津軍の総大将として指揮を執り武功を挙げることも多かった。
1586年には豊後の大友領に侵攻し、肥前の熊・龍造寺隆信を島原で討ち取るなどし、筑前・豊前を除く九州全域を制圧した島津家は56万石となり九州統一を目前にしていた。
その為、大友宗麟は、豊臣秀吉に臣従し救援を求めた。

1585年頃、室町幕府15代将軍・足利義昭から偏諱を賜って島津義珍(よしたか)と称したが、1587年からは島津義弘に改名。

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1587年4月17日、大友宗麟の援軍要請を受けた豊臣秀吉の九州征伐軍(豊臣秀長黒田官兵衛藤堂高虎宇喜多秀家ら)と日向根白坂で戦った(根白坂の戦い)。
このとき島津義弘は自ら抜刀して敵軍に斬り込むほど奮戦したが、10万の豊臣勢に対して、島津勢は35000で島津忠隣、猿渡信光らが討死し敗走した。
敗れた島津義久は戦意を失い、剃髪して龍伯と号した上で5月8日に豊臣秀吉に降伏。降伏した後も島津義弘(52歳)は徹底抗戦を主張したが、5月22日に兄の懸命な説得により、島津義弘の子・島津久保(しまづ ひさやす)を人質として差し出すことを承諾し降伏。
豊臣秀吉からは大隅国の所領安堵を認められ、島津義久と同格の大名に処された。

日の時、島津義弘は、島津義久から家督を譲られ島津家の第17代当主になった。
しかし、名目上の事であったようで、島津義久はその後も島津氏の政治・軍事の実権を掌握している。(豊臣秀吉が島津家の勢力を分裂させる目的で、弟の島津義弘を当主として扱ったという説もある。)

1588年、島津義弘が上洛すると、羽柴の名字と豊臣の本姓が下賜されたが、兄・島津義久には羽柴の名字のみが下賜されている。

1592年からのの文禄の役、1597年からの慶長の役には、いずれも朝鮮へ渡海して参戦。30000の敵を、僅か7000で撃退するなどし、日本側の記録によれば、朝鮮の役で義弘は「鬼石曼子(グイシーマンズ)」として朝鮮・明軍から恐れられていたとされる。
しかし、1593年9月8日、朝鮮の巨済島で子の島津久保が病死。享年21。
殉死者が3名出ている。
これら朝鮮での功により島津家は50000石の加増を受けたが、島津義弘は1599年に剃髪し「惟新斎」と号している。

なお、兄・島津義久に男児がなかったのと、今回、島津久保が朝鮮で陣没したため、豊臣秀吉の指名により3男・島津忠恒(しまづ ただつね)が島津家の後継者と定められた。

薩摩では、1595年頃より帖佐館を築いており、文禄の役から帰還すると、栗野城より帖佐館に移っている。


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1598年の豊臣秀吉死後、島津義弘(島津惟新斎入道)は中立的な立場を貫いていたが、島津家では反豊臣的な兄・島津義久と、親豊臣的な島津義弘の間で家臣団が分裂。
兄・島津義弘の子・島津忠恒によって家老の伊集院忠棟が殺害され伊集院忠棟の嫡男・伊集院忠真が反乱を起こした。

1600年、徳川家康上杉景勝を討つために会津征伐に出ると、島津義弘(島津維新入道)は徳川家康から援軍要請を受けて1000の軍勢を率いて伏見城へ向かった。
しかし、伏見城を守る鳥居元忠が、徳川家康が援軍要請したことを聞いていないとして入城を拒否したため、島津義弘は西軍への見方を決意した。
本国の兵の動員権限は、兄・島津義久にあった為、大阪の僅かな兵士か動員できなかったようだ。島津義弘(66歳)は国元に援軍を要請したが、島津義久も島津忠恒も動かなかった。
その為、石田三成らは、僅かな手勢の島津義弘を軽視し、前哨戦で島津義弘隊を見捨てたり、島津義弘の案を退けたりしている。
そのような事もあり、関ヶ原の戦いでは、西軍として陣を張ったものの島津義弘は動かなかった。石田三成の家臣・八十島助左衛門が使者として島津義弘に要請しても「陪臣の八十島が下馬せず救援を依頼した」として、島津義弘や甥の島津豊久は激怒して追い返している。
毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊長束正家長宗我部盛親などは傍観し、小早川秀秋脇坂安治朽木元綱小川祐忠赤座直保ら西軍諸将の寝返りにより、石田三成や小西行長大谷吉継、宇喜多秀家らが総崩れとなると、島津義弘は退路を遮断された為、切腹しようとしたが、甥の島津豊久の説得を受けて敵中を正面突破。
徳川勢の井伊直政本多忠勝松平忠吉らの追撃を受けたが、島津勢は、何人かずつが留まって死ぬまで敵の足止めをし、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという壮絶な撤退戦法を用いた。
島津豊久は重傷を負ったが、かろうじて島津義弘は撤退に成功。生きて薩摩に戻ったのは、わずか80名だったと言われるが、この退却戦は「島津の退き口」と呼ばれ全国に名を轟かせた。

島津義弘は摂津・住吉に逃れていた妻や立花宗茂らと合流して、共に海路から薩摩に逃れ、島津義弘は徳川家康に恭順の意を示すため、桜島に蟄居。
その後、井伊直政や本多正信を頼り徳川家康への取り成しをするも、当主出頭要請を拒み軍備を増強し続けた島津家の態度に、徳川家康は島津討伐軍を号令。
加藤清正、黒田官兵衛・黒田長政ら30000の兵が向かったが、島津勢の主力兵力は関ヶ原に出していなかった為健在で、睨み合いとなった。
長期戦となると、他での反乱を招く恐れもあったことから、徳川勢は撤退し、1602年に赦免され、西軍にあった大名として唯一の本領安堵となった。

島津義弘は茶の湯を愛し、千利休の弟子でもあった。また、神仏崇拝に篤く、高野山にて朝鮮の役の両軍戦没供養を行っている。

実権をずっと握っていた兄・島津義久が、1611年1月21日、国分城にて病死。享年79。

隠居していた島津義弘は1605年)頃に帖佐館より平松城に移り、慶長12年(1607年)には更に加治木館へと移って余生を過ごした。

その後、島津義弘は1619年7月21日に死去。享年85。
なお、13名の家臣が殉死している。


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墓所は長谷場御墓(福昌寺跡)にあり、位牌は日置市の妙円寺にある。

帖佐館

帖佐館(ちょうさやかた)は御屋地(おやじ)とも呼ばれる居館で、新納旅庵の普請により築かれたとされる。

帖佐館

現在は、稲荷神社となっている場所が帖佐館跡となる。

帖佐館跡

周囲に残っている野面積み石垣は当時の遺構と言う事になる。
蒲生地頭・阿多長寿院が大石を運ばせたとされ、前面の石垣の中には島津義弘の羽織掛石もあると言う。

帖佐館

大手は東側で門柱跡が残っている。

帖佐館

下記写真は稲荷神社となる。

稲荷神社

境内には惟新公の碑(島津義弘の碑)もあった。

惟新公の碑

館跡とは言え、さすが、戦国期に建造されたので貫録を感じる。

帖佐館

なお、島津義弘が毎日、朝と晩に仏前勤行したとされる「花園寺跡」が、帖佐館跡(稲荷神社、帖佐御屋地跡)のすぐ西隣にある。

花園寺跡公園

4500万円を掛けて公園整備され、2016年2月3日に、花園寺(かえんじ)跡公園として開園した。

花園寺跡

古井戸も残されている。

花園寺跡

当時の建物配置の説明もあり、間違いなく、島津義弘ゆかりの跡地である。

花園寺跡

さて、帖佐館への行き方・アクセスであるが、下記の地図ポイント地点が、無料駐車場が整備されている花園寺跡公園となる。

膝付栗毛の墓

帖佐館跡の北方700mほどの場所に、膝付栗毛の墓がある。
この膝付栗毛(ひざつきくりげ)と言うのは、島津義弘の愛馬ではあるが牝馬(ひんば)だったと言う。
家老・長寿院盛淳が献上したとも、加治木西別府村の牧場苑の産ともされる。

膝付栗毛の墓

特に1572年、伊東祐信、柚木崎正家(柚木崎丹後守)との木崎原の戦いにて、この愛馬が膝を突き曲げて、柚木崎正家が襲おうとしたのをかわし、島津義弘の命を救ったと言う逸話がある。
そのため「膝突栗毛(膝跪騂)」と呼ばれ、以後は、島津義弘もこの馬を大事にし、主要な合戦以外には使用しなかったと言う。
人間の年齢にして83歳まで生きた馬とされ、墓と墓碑が建立されている。

なお、膝跪騂馬の墓のうしろには「橋口夫妻之墓」がある。

橋口夫妻之墓

この橋口対馬夫妻と言うのは、高齢となって引退した膝跪騂馬の世話をした家来ご夫婦と言う事である。

さて、膝付栗毛の墓であるが、下記の写真のように田んぼの奥、山裾であるが、かつては亀泉院と言う寺院があった。
現在は亀泉院墓地と呼ばれている。

膝付栗毛の墓

下記の地図ポイント地点の路肩に1~2台ほど車を止められるスペースがあり、駐車禁止ではない。

しかし、農作業されている地元の方などのご迷惑にならないようご配慮頂きたい。

加治木館

加治木館(かじきやかた)は現在の加治木・護国神社が目印となる。
島津義弘が亡くなった場所と言ってよいだろう。

加治木ご出身の田中氏のご説明によると、隣接する加治木高校の一角は東の丸で、加治木高校の生徒さんが、島津義弘の加治木館跡となる護国神社の清掃なども定期的に行っているようだ。

加治木館跡

なお、柁城小学校の場所は、のちに増設された西の丸となり、このように加治木館を加治木・島津家が明治まで居所とした。

加治木館跡

以上、戦国時代の島津家関連、幕末の西郷隆盛や薩摩藩関連史跡は、下記のオリジナルGoogleマップでも、場所をピンポイントで示しているので、カーナビ代わりなどにご活用頂ければ幸いである。

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