皆川広照 戦国を生き抜いた栃木の大名

皆川広照

皆川広照(みながわ-ひろてる)は、戦国大名である皆川城主・皆川俊宗の次男として1548年に生まれました。
母は、結城政勝の重臣である下館城主・水谷治持の娘です。
皆川氏は、平安時代の藤原氏秀を先祖に持ちます。
いくつか分流がありますが、源頼朝の挙兵に参加した小山政光の次男である長沼宗政の孫・皆川左衛門尉宗員が、下野国都賀郡皆川に住みます。
この皆川氏の流れが皆川広照となります。

皆川広照が生まれた頃の皆川城では、関東管領上杉謙信小田原城北条氏政宇都宮城の宇都宮尚綱と3大勢力により、微妙な立場を強いられいました。
そのため、上杉氏に従ったり、宇都宮氏に臣従したり、佐野城に進出した北条氏照に味方したりと、勢力を乗り換えて行くようになりました。


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成長した皆川広照は、父や兄・皆川広勝と、1563年には川連城を攻略し、1564年には榎本城も落とすなど、勢力を拡大して行きます。
1572年、父・皆川俊宗が北条氏政・那須資胤と連携して、宇都宮氏重臣のひとりである岡本宗慶を謀殺します。
更に、皆川広照が宇都宮城にいた宇都宮広綱を幽閉し、宇都宮城を占拠しました。

翌年、1573年、父・皆川俊宗は結城晴朝とともに関宿城を救援して北条氏政と戦いましたが、下総・田井にて討死したとされます。
これには諸説あり、小山氏の粟志川城を攻めて討死したともありますが、いずれにしても、兄・皆川広勝が家督を継ぎました。
そして、兄・皆川広勝は、北条家、古河公方・足利義氏 、壬生義雄との関係を維持し、皆川家を存続させます。
また、1575年、平野久国が守備する下野・粟野城を、重臣の斎藤秀隆に攻略もしましたが、1576年に死去しました。享年29。

そのため、次男であった皆川広照が家督を継ぎました。
皆川広照の最初の正室は鶴子(壬生綱雄の娘、壬生義雄の妹)で、のち後継して、常陸・府中藩主(石岡藩)となる皆川隆庸(みながわ-たかつね)が、1581年に生まれています。
1585年に北条家に降伏したあと、正室となったのが、中御門宣綱の娘(北条氏政の養女)です。

急な家督継承となり、当然のように周辺勢力は、皆川広照を攻撃しました。
1577年、北条氏は、宇都宮国綱に組していた皆川家に大軍を向けましたが、防いでいます。

また、同年、下野・粟野城の平野久国が、皆川城の支城である川連城に夜討ちを行い、川連仲重が討死しました。
一時、川連城は奪われましたが、すぐに皆川広照が奪還したようです。
このとき、川連城の戦いで命を失った川連仲重の娘が、堀にて水死した悲話「七尋蛙」(ななひろがえる)が伝わります。

しかし、1578年、上杉謙信が亡くなると、佐竹義重が中心となった北関東の反北条連合に、皆川広照も加わったようです。
佐竹義重は結城晴朝・那須資胤とともに、北条氏に味方する壬生義雄を攻撃しました。
そのため、北条氏政は関宿城に入り、北条氏照らが山川城や結城城を攻撃して反撃に出た模様です。
そのため、佐竹義重は壬生城攻略をやめて、結城晴朝を支援するため小山に転進し、宇都宮広綱・芳賀高継・大掾資幹の軍勢を加えて結城城の結城城の東を流れる絹川(鬼怒川)を渡って、小川台(茨城県筑西市)に布陣しました。
これに対して、北条勢は武井・但馬に陣城を築いて対陣したのですが、この時、皆川広照は北条勢に加わったとあります。
対陣は2ヶ月にも及ぶびましたが、越後の春日山城では「御館の乱」が発生し、北条勢が退いたことから、大きな合戦にはならず終息しました。
※可能性として、皆川広照が北条家に転じたのは、合戦後の可能性もありますが、コロコロ寝返っているため、不明瞭な部分が多いです。
また、皆川広照は、栃木城の拡大工事を開始しており、川連城との連携を強化しました。


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一方で、皆川広照は関東の武将の中では、早くから織田信長に貢物を送るなどし、1580年には徳川家の家臣・中川忠保と親交を深めて、徳川家康への接近も試みています。
また、1581年には、家臣の関口石見守を安土城へ派遣し、織田家臣・堀秀政を通じて名馬三頭を贈っています。
この時、織田信長は、喜ん、「天下布武」の朱印状と縮羅百端・紅緒五十結・虎革五枚など馬七頭分を贈答したとされます。
また、帰り道、関口石見守は浜松城にて徳川家康とも会見し戻っています。
関口石見守は、帰り道、東海道を通行する際の安全を、織田信長より保証されていました。
最近、織田信長が関口石見守に渡したと考えられる、街道筋の宿場に人馬の提供を命じた「伝馬朱印状」が発見され、栃木県立博物館にて公開展示も行われました。
このように、皆川広照は外交面でも優れており、小勢力ながらも皆川氏として最盛期を築き、戦国の世を乗り切って行きます。

1582年、織田信忠が甲斐に入って武田勝頼が自刃すると、上野・厩橋城入った滝川一益に出仕しました。
そして、皆川広照は佐野房綱、従兄弟の水谷勝俊らと共に、神通川の戦いでは滝川勢に加わっています。
その後、滝川一益が尾張に逃れると、徳川家康の軍勢に加わり、天正壬午の乱では、若神子の戦いで北条氏直と対戦しました。
徳川家と北条家が和議となると、小田原の北条氏の敵は北関東だけとなり、侵攻が激化します。

1584年、北条氏直は8万ともされる大軍を率いて下野・沼尻(藤岡城近く)に布陣し、皆川広照、宇都宮国綱、佐野宗綱、佐竹義重、結城晴朝ら反北条連合勢2万と対陣しました。
この対陣も長期戦となり、110日に及びましたが、豊臣秀吉は小牧・長久手の戦いで徳川家康に挑んでいた頃となります。
皆川広照が守っていた岩船山は落ちましたが、北条氏は、場合によっては、徳川氏を助けなくてはならなかったため、
沼尻の戦いは和解となりました。

羽柴秀吉は、関東惣無事令を発令しましたが、九州攻めを開始したため、小山城の北条氏照、唐沢山城北条氏忠、壬生城と鹿沼城で妻の兄弟である壬生義雄などから、皆川城は包囲される形となりました。

そして、1585年、北条氏照が大軍を率いて藤岡城に入り、皆川城の攻撃態勢を整えます。
そのため、皆川広照は、佐竹義重の援軍を得て、川連城の西にそびえる太平山城にて迎撃態勢を取っています。
北条家により総攻撃で、太平山神社の本殿などが焼け、多数の神社仏閣が焼失すると、皆川広照は撤退して北にある草倉山に陣を移し、約100日のゲリラ戦を展開しました。
しかし、大軍の前に、皆川家の家臣らは相次いで討死し、布袋山城にて滅亡を覚悟した頃、徳川家康と佐竹義宣の使者が訪れて、北条氏直に降伏することを薦められました。

北条氏に降伏すると、この頃の北条氏直は、臣従した大名が寝返らないよう、北条家から女を嫁がせています。
その新しい性質が、北条氏政の養女(中御門信綱の娘)と言う事になります。

なお、この北条氏との戦いのとき、下野・粟野城が佐野氏によって陥落し、かつての粟野城主・平野範久の子孫になる平野久国(平野大膳久国)が下野・粟野城に入っていました。
そのため、1588年、皆川広照は、斎藤秀隆ら2000余騎を派遣して下野・粟野城を総攻撃して奪還し、落合徳雲入道を配置しています。


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その後、1590年、豊臣秀吉の大軍が、小田原攻めを開始しても、皆川広照は北条氏へ従う姿勢を見せました。
皆川広照は北条氏照の指揮下に入って、小田原城の竹浦口を守備しましたが、秘かに抜け出すと、徳川家康の陣を訪れて秘密裏に降伏を願い出ています。
その間、留守の皆川城は、上杉景勝ら北国勢により降伏・落城し、城内にあった金の鹿が太平山に埋められたという伝説も残っています。

こうして、小田原城が開城しても、皆川広照は3万5000石の所領安堵となり、豊臣秀吉の命にて本拠を栃木城に移し、城下町を整備しました。
朝鮮攻めでは、徳川家康に従って、肥前・名護屋城に赴いています。

1600年、関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠に従って、宇都宮城に入ったあと、下野・大田原城にて、水谷勝俊、大田原晴清らと共に守備しました。
その後、鍋掛(那須塩原市)に布陣して、上杉景勝の南下を警戒しています。

嫡子・皆川隆庸は、徳川秀忠に帯同して、真田昌幸の信濃・上田城の戦いにも加わりました。
こうして、関ヶ原の戦いも無事に乗り切った皆川広照は、1603年、徳川家康の6男・松平忠輝の御附家老となっています。
松平忠輝を皆川家で引き取って養育していたため、松平忠輝が18万石で川中島藩主になると、信濃・飯山城4万石を与えられ、旧領と合わせて7万5000石となりました。

松平忠輝は伊達政宗の娘・五郎八姫を正室にしています。
しかし、松平忠輝は幼い頃から時から粗暴で、日ごろ酒におぼれ、暴虐のふるまいがあったとされます。
その状況を、山田重辰、松平清直らと共に、駿府城の徳川家康に訴えますが、逆に松平広照からは老臣が政務を牛耳っていると訴えられました。
徳川家康の判断にて、皆川広照らは1609年に改易(所領没収)となっています。
改易後、皆川広照は京都の智積院にて謹慎し、剃髪すると老圃斎と号しました。

1614年、大坂夏の陣では嫡子・皆川隆庸と共に徳川勢の井伊直孝隊として参戦しています。
その後、1623年に赦免されると5000石にて徳川家光に附けられ、常陸・府中城1万石を加増され、大名に復活しました。
1625年、皆川隆庸に家督を譲って隠居し、2年後の寛永4年(1627年)に皆川広照は死去。享年80。


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小さな領主ながらも、激動の戦国時代を生き抜いた、関東の武将でした。
しかし、孫の皆川成郷の後継ぎがなく、無継嗣改易(断絶)となっています。

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